1975年生まれ。出身は北海道帯広市。学生時代は基礎スキーに取り組み、滑りのベースを構築。その後、2000年のマッキンリー(現・デナリ)挑戦を機に、山岳スキーの世界へ。これまで世界各国の山々に挑み続け、アラスカ・グリーンランド・パキスタン・スロベニアなどに遠征。活動の幅はスキーシーンにとどまらず、スキーをきっかけとしたムーブメントを起こすべく、ブランド「新しいスキー様式」を立ち上げ、文化的発信にも力を入れている。
マッキンリーへの挑戦がターニングポイントだった
ー基礎スキーから、本格的にバックカントリーシーンに転向されたターニングポイントはなんだったのでしょう?
2000年に挑戦した、マッキンリー(現・デナリ)ですね。20歳から25歳まで「全日本スキー技術選手権大会」に出場して、ちょうど5年目が終わったところでした。「自分、こんなんでいいのかな」と、気持ち的にモヤモヤしてたんです。
そんなときに挑んだマッキンリーが、バックカントリーに踏み込む入り口になりました。
ーどのような経緯で、マッキンリーに挑戦されたのでしょうか?
たまたまブラジルに行く機会があって、その帰りにアラスカに立ち寄ろうとしたんです。そしたらいたんですよ!マッキンリーに登る予定で来ていた、佐々木大輔君が(笑)。
大輔は高校時代のスキー部の後輩で、今ではビッグマウンテンスキーヤーになってますが。
ーそんな偶然があるんですね!
驚きました。しかも、マッキンリーに登るメンバーのひとりが骨折して来られなくなって、食料も含めて、装備が余っていると。「これは人生経験にプラスになるかも!」と考えました。
そこですぐに、「邪魔にならないようなら、行けるところまでついていってもいいか」って、その場で確認したんです。
大輔は「先輩は体力があるし、スキーもできるし、いいよ」っていってくれました。でも、ほかのメンバーは「なんでそんな素人みたいな奴、連れていくんだよ」って思ってたみたいで。いま考えてみると、当たり前ですよね。
ー突然のマッキンリー挑戦だったんですね。余っているような装備で行けるものなのでしょうか?
実は、登山用ブーツをアンカレッジでレンタルしたんです。でも、よく見ると、両方とも右足用で(笑)。仕方なく、出発ギリギリで、町に1軒だけある登山靴屋に行ってブーツを買いました。
マッキンリーといえば、名だたる岳人が下積みを重ねて、最終目標に設定するような山ですよ。当時、自分はまだまだ素人だったのに、そんな状態で挑んだんです。
ーマッキンリーの山頂から滑るのは、すごいことですよね。
残念ながら、道具の不備もあり、山頂からは滑れませんでした。正直、そこでスキーの楽しさは味わえなかったんですよ。すべてがあまりに大変すぎて。
ー何日くらいの行程だったのでしょう?
全行程は3~4週間でした。それまで自分は山で生活した経験がないから、「とにかくメンバーに迷惑がかからないように」という気持ちで精一杯でした。
経験を重ねて技術を磨く日々
ーマッキンリーでは、大変な経験をされたのですね。なぜ挑戦を続けたいと思われたのでしょう?
素直に「これがやりたい!」と思ったかは、微妙でしたね。ただ、山への憧れはさらに強くなりました。スキー場ではなく、山で滑るってことは、結局スキーが一番うまいってことだと思うんですよ。
スキー技術はもちろん必要ですが、凍った高所も登れて、登山もできなきゃいけない。トータル的な山の技術がなければ、スタートラインにすら立てないですからね。いつかその域に達したいと思いました。
ーマッキンリーのあとは、どのようなことを行われたのでしょうか?
翌年の2001年から、コンスタントに世界の山々に挑戦しました。ロシアやアラスカにも行きました。また、スキーだけでなく、カヤックやバイクでの移動なども含めて、いろいろ経験してみたんです。
ー多岐にわたる挑戦をされたのですね。
そうですね。1年に1度は自分の集大成として、ハードな遠征を続けようと思ってました。大輔やタケさん(プロスキーヤーの児玉毅さん)と比べると、自分は圧倒的にスタートが遅いですから。
マッキンリー後は、とにかく旅をするうえでの経験値の差を埋めるのに、必死でした。実際にやってみないと、経験は積み重ねられないですからね。
ー行き先はどのように決められてきたのですか?
はじめの頃は知識がないので、タケさんや大輔、周りのメンバー、先輩たちについていく感じでした。「一緒に連れていってください」って。
でも、そういう状態からは卒業しなきゃいけない。結局は、自分でやってこそじゃないですか。なので、途中からはオリジナル度が高い遠征になっていきましたね。
ライラピークへの単独遠征を実現
ーご自身で行程を組むようになってから、挑戦された場所は?
大きなポイントでいうと、パキスタンですかね。2018年に、カラコルム山脈のライラピーク(6,096m)を目指しました。それまでと大きく違ったのは、単独でアレンジした遠征だったことです。
記録係としてカメラマンの中田寛也が同行してくれましたが、手配からすべて自分ひとりで行いました。
ー全部おひとりで!相当なご苦労があったのではないでしょうか?
そうなんですよ。正直、予想をはるかに超える大変さでした。現地とのやり取りは、なんとか探して契約したエージェントを介して行いました。
でも、やっぱりお金がかかってしまいます。訪れる国が、産業として登山者の受け入れ態勢を確立していないと、「マニアックな山は、名だたる山より資金が必要」なんてこともあるんですよ。
ー山で経験を積んでいくなかで、スキーの技術もさらにレベルアップされたのでしょうね。
滑りは逆に、シンプルになっていきますね。ターンの最後にちょっとひねるとか、そういった技術よりも、より安全に山から下りるためには、どうすべきかを考えるようになりました。
山での挑戦は、滑ることだけじゃないんですよ。登る、泊まるなど、やることが多いので、不要なことはどんどん削ぎ落とされていくんです。
もちろん滑るイメージは描きます。そうしないと命に関わるので。
場所を変えると見えてくるものが違う
ーSNSでは、スキー以外に、遠征先の文化や生活についても発信されていますね。
はい。スキーを大事にしてるからこそ、ほかの物事から見える共通点のようなものを、常に探しているのかもしれません。単純に楽しいんですよ、物事をさまざまな視点から見るのが。
そうして角度を変えて見えてきたものを、最終的には「自分の活動に落とし込めたらいいな」と思ってます。
ー遠征の際は、現地の生活に入る機会も多いと思います。いろいろ刺激を受けることもあるのでは?
もちろん刺激はありますね。その土地に合った生活感を大事にするようにしてます。体も現地の農産物を食べて作っていく。やはり郷に入れば郷に従うほうが、リズム的にはいいんじゃないですかね。
ー2018年のパキスタン遠征後は、どのようなところに行かれたのでしょうか?
2019年はスロベニアに行きました。2000年以降はコロナが始まって、海外遠征に行くのが難しくなりました。
でも、日本国内でやりたいことが残ってたので、ちょうどよかったんです。海外にばかり目がいってたわけでもなく、遠征にかけられる時間も限られますからね。
海外と国内で、山のベストなシーズンが重なってしまうと、それまでは海外をメインにしていました。ここ2~3年は、国内で行きたかった場所に挑戦できてよかったです。
日本の山には世界でもトップクラスの魅力がある
ー最近、日本国内では、どのような山に挑戦されたのでしょう?
2022年4月に、北海道の東大雪にあるニペソツ山に行きました。あとは、黒部の源流といわれる、北アルプスの黒部五郎岳ですね。
ー海外の山を数多く経験されてきたからこそ感じる、日本の山のよさはどんなところですか?
日本の山はドラマチックな感じがありますね。起承転結がある。あとは、滑り重視の人にとっては雪質や、パウダースノーの圧倒的なリセット力も感動するところです。
スキーヤーやスノーボーダーのトラックだらけの斜面も、朝起きるとすべてリセットされてる。ノートラックになってるんですよ。カナダなんて、「今日は降った!」といっても、2cmくらいの積雪ですからね。
ー日本は雪質に恵まれていると。
そうなんです。1月のニセコはほとんど晴れないので、外国の方は「なんだよ、1回も晴れないじゃん」と文句をいう方もいます。でも、それが毎日いい雪で滑ることができる要因なんですけどね。
ー天気予報はやはり気になるところですよね。
海外の遠征先での長期予報はあまり外れません。地形が複雑じゃないので、天気が読みやすいんです。
それに対して、日本は島国で海が近いから、雲の発生率も高いんですよ。おまけに、日本の天気予報はすぐ変わるから読みづらい(笑)。でも、こうした日本の気象のおかげで、いい雪で滑れるんですから、ありがたいことです。
山木匡浩さんのインタビュー記事は下記から御覧下さい。
【山木匡浩】国内外の山々で挑戦を続けるビッグマウンテンスキーヤー/vol.1
【山木匡浩】国内外の山々で挑戦を続けるビッグマウンテンスキーヤー/vol.3
ライター
MORITAX
スキー専門誌にライター・編集者として在籍し、現場取材から選手スキー技術解説記事、ニューアイテム紹介まで幅広く担当。現在はライター・編集者として、スキーのみならずアウトドア関連の情報発信にも携わる。趣味はスキーヤーとキャンプで、スキー歴は30年以上。最近はカヌーでいろいろな湖に行くのが楽しみの一つ。