スキーメーカーの映像制作などで活躍しているDAIGOさん。スキー場の麓という最高の環境で幼い頃からスキーにのめりこんでいた彼は、大会出場とヒップホップアーティストとしてのデビューも果たします。そんなDAIGOさんが、“飯を食う”ために行き着いた唯一無二の仕事とは?
DAIGOさんプロフィール
本名・伊藤大悟。1980年生まれ。出身は北海道札幌市。小学生から地元のスキーチームに所属し、スキーの楽しさを追求。学生時代は基礎スキーに取り組み、大会にも出場。その後、高校生の頃から続けていた音楽、ヒップホップでCDデビューを果たす。映像クリエイター、大会やイベントのMC、ラジオDJとしての顔ももつ。現在は新たな楽曲制作や自身の映像作品を残すべく精力的に活動を続けている。
幼少期は仲間とのスキーがなによりの楽しみ
ープロフィールを拝見すると「スキーヤー」とありますが、何歳くらいからスキーをされていたのでしょうか。
実家がサッポロテイネスキー場の麓にあり、幼稚園のときにスキーを初めて履きました。小学生になってからはスキースクールに入って、冬休みは毎日滑っていましたね。
ースキーが生活の一部だったのですね。
当時はテレビ番組「SKINOW」の全盛期で、かっこいいスキーヤーがたくさん出演されていました。スクールにも上手な先輩がいたので、それに憧れて全日本ジュニアスキー技術選手権大会(以下、ジュニア技術選)に出場していました。
ー基礎スキーにハマったんですね。
仲間と過ごす時間が楽しかったですね。学校、学年の枠を越えて集まっているので、いろいろな刺激がもらえました。
ー基礎スキー以外のいろいろなジャンルのスキーをやってみたいとは思わなかったのでしょうか。
スクールでは、ジュニア技術選で成績を残すための練習をしていました。ほかにも、コブ斜面を滑ったり、ときにはジャンプ台を作って飛んだりしていたので、普段から純粋にスキーを楽しんでいた感じです。
ー当時、将来スキーを仕事にしたいといった思いはあったのでしょうか。
ありませんでした。小学生の頃の作文では、「SKINOWに出演している人みたいになりたい」と書いていましたが、高校生になると音楽が楽しくなっていましたね。高校時代は野球部に所属しつつ、冬はスキーをして。音楽は1年中楽しんでいました。
デビューして見えた音楽の世界
ー音楽に目覚めたんですね。
高校生の頃にバンドが流行っていて、友達と組んだのがきっかけです。音楽が楽しくてのめり込みすぎて、大学に入るのに二浪しちゃいました。音楽で飯を食おうとは思っていませんでしたが、とにかく楽しくて続けていました。
大学4年の頃にはヒップホップグループとして大手レーベルと契約し、アルバムもリリースしました。
ー大学卒業後はレーベルと契約しながらも、普通に就職されたんですよね。
マネージャーから「音楽で飯を食うのは難しいから、就職しなよ。働きながらでも音楽はできるから」と言われて。今と違って、ヒップホップは当時アンダーグラウンドミュージックでしたから。レーベルもヒップホップに対してまだ手探りな感じだったので、そのような言葉をかけたのでしょうね。
ー実際、働きながら音楽活動はできたのでしょうか。
アルバム1枚、シングル何枚かをリリースする契約だったのですが、仕事が忙しく、勤めながらリリースはできませんでした。結局、就職して1年くらいで仕事を辞め、アルバイトをしながら音楽を続け、冬はスキーをする、といったフリーランスの生活がはじまりました。だけど、おかげさまでヒップホップの世界ではそれなりに有名になれました。
ーその頃、スキーの成績はどうだったのでしょうか。
技術選の全日本出場を目指していたのですが、北海道のレベルは高く、夢は叶いませんでした。でも、当時ドレッドヘアーで大会に出場していたので、目立ってはいたと思いますよ(笑)。
音楽×スキー=楽しい!映像の世界へ
ー今も続けていらっしゃる映像関係の仕事は、いつ頃からスタートされたのでしょうか。
音楽をがんばっていたときと同じ頃ですね。当時使用していたスキーのメーカーが、日本でフリースタイルスキーを展開するという話がきっかけです。
ーフリースタイルスキーということで、「横ノリ文化=音楽」といった流れでDAIGOさんに話が舞い込んだのでしょうか。
当時のメーカーの日本担当者の方が、「音楽やってるし、お前できるんじゃない?」くらいのノリで声をかけてくれて。実際、音楽つながりでプロスノーボーダーの知り合いも多かったので。
当時から彼らのシーンには、自分たちで滑りを撮影して、パソコンで編集して、DVDとして販売する、という流れが普通にありました。なので、自分の好きな音楽とスキーを組み合わせた映像っておもしろいかも、と引き受けました。
ー周りに知り合いこそいたけれど、ノウハウ的にはゼロですよね。
ほぼゼロ。当時は金がなく、機材も高かったので、仲が良かったプロスノーボーダーからカメラを借りて撮影して、代わりに彼が映像を編集するときには自分のパソコンを貸すというスタイルで、見よう見まねでスタートさせました。
ー当時、音楽に力を注いでいた頃かと思いますが、音楽一本で生きていくといった気持ちはなかったのでしょうか。
音楽で飯が食えるというビジョンが全然見えなくて。自分がやっていたヒップホップは今でこそメジャーですが、当時はめちゃくちゃアンダーグラウンド。
当時の仲間で売れたアーティストもいるけれど、自分がそこに立っているイメージは湧かなかった。なにより、映像とスキーの掛け合わせが楽しくなっちゃったんですよね。
ー見よう見まねで作られた映像作品1作目ですが、やってみてどうでしたか。
作品で使用する音楽すべてを自分のクルーのものにしたのが楽しくて。「モノ作ってるー!」って感じがしましたね。もちろんクオリティは低いけど、とにかく楽しかった。
今は映像で飯を食ってるので、作るものに対しては予算に対して実働時間を計算してしまうけど、当時はそんなの関係ないから。カメラ構えてあちこち行って、採算度外視でやれていたのがよかったかな。
ーこれをきっかけにスキーが仕事になっていったのでしょうか。
メーカーのプロモーションビデオ制作、展示会のアテンドなど、とにかくスキーやメーカーを盛り上げてほしいと言われていました。
ー1本の相談から映像が仕事になって、それが縁でスキーも仕事になった感じですね。
映像は手探りで大変な部分もありましたが、自分が作ったものが売り上げにつながっていくのはおもしろかったです。ありがたいことに、ここからメーカー所属のテレマーク選手のシグネチャーDVDの制作や、自分の作品『SKI&SNOWBOARD DVD BUILD』発表と、映像方面で活動の幅を広げられました。
ーメーカーの垣根を越えてどんどんレベルアップしていった感じですね。
当時仕事をいただいていたメーカーの社長が「どんどんチャンスを生かして、名前を売った方がいい」と言ってくださって。可能性を信じて応援してくれた懐の深さに本当に感謝しています。
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ライター
MORITAX
スキー専門誌にライター・編集者として在籍し、現場取材から選手スキー技術解説記事、ニューアイテム紹介まで幅広く担当。現在はライター・編集者として、スキーのみならずアウトドア関連の情報発信にも携わる。趣味はスキーヤーとキャンプで、スキー歴は30年以上。最近はカヌーでいろいろな湖に行くのが楽しみの一つ。