山木匡浩さんのプロフィール
きっかけはファミリーで楽しんだスキー
ースキーをはじめたきっかけを教えてください。
3歳の頃に両親が連れて行ってくれた、ファミリースキーです。帯広市は北海道の東側にあり、雪はあまり降らない地域ですが、自分は比較的スキーに行ってるほうでした。周りの友達より、スキーができたんです。そこで、「俺、結構うまいかも」って勘違いして(笑)。それで「プロになろう」って考えました。
当時、テレビでスキー番組の「SKINOW」が放送されていて、影響を受けたのもきっかけですね。スキー雑誌も買って、熟読してたんですよ。
ー雪があまり降らない帯広だと、スキー場に行くのは大変だったのでは?
近場では、新嵐山スキー場(現・メムロスキー場)に行ってました。ちょっと遠くまで行くときは、狩勝高原スキー場(現・サホロリゾートスキー場)や、富良野スキー場ですかね。
当時は雪が降らない地域の周りにも、どんどんリゾートスキー場が増えてました。スキーシーンは盛り上がっていましたね。
ー当時、シーズン中は、どれくらいスキー場に通っていたのですか?
スキーに関して親がアクティブだったので、最低でも月1回以上は通ってました。時間があるときは、ナイターにも連れて行ってもらいました。当時、スキーはブームでしたからね。スキーショップがたくさんあったし、指導員資格をもっている方も多かったですね。
初挑戦の大会で結果を出し、スキー漬けの毎日に
ー現在はバックカントリーシーンで活躍されていますが、はじめは基礎スキーに挑戦されていたとか。
テレビ番組「SKINOW」で活躍してたのが、デモンストレーターと呼ばれる人たちだったんです。デモンストレーターというのは、スキーを指導するための高い技術がある選手たちのことです。
デモンストレーターたちは華やかだったし、「これになったら食えるんじゃないか」と思いました。そこで、プロスキーヤーになろう、スキーで稼ごうと考えたんです。
結果、最初に設定した目標は、「全日本スキー技術選手権大会(以下、技術選)に出場して、デモンストレーターになる」ことでした。
ー目標への第一歩は、どのように踏み出されたのでしょう?
小学校6年生のときの担任の先生が、きっかけをつくってくれました。ニセコで開催されていた、「北海道ジュニアスキー技術選手権大会」を教えてくれて、初めて大会に参加したんです。
大会ではすごい急斜面で、ほぼ暴走するような滑りでしたが、いきなり2番か3番になってしまって。そこでまた勘違いです(笑)。「俺、いけてるじゃん」って。
ー中学生の頃、帯広から引っ越しされていますよね?
はい、中学校3年生のはじめの頃ですね。母親にスキーを真剣にやりたいっていったら、札幌を選んでくれたんです。
札幌に引っ越して、初めてスキーメーカーのジュニアチームに所属しました。さらに深くスキーに打ち込んで、スキー漬けの毎日を送るようになったんです。
ー大会に向けた練習と、学業の両立は大変だったのでは?
18歳から大会への出場権が与えられていたので、そこに照準を合わせていました。大学受験をしていたら、冬にスキーができませんよね。なので、推薦で大学に行けるように、高校生活を送っていました。
でも、18歳で初出場した、技術選の北海道予選では、23位か24位だったんです。全日本大会への出場ラインが22位までだったので、ギリギリ行けませんでした。
ー惜しくも予選通過は叶わなかったんですね。その結果については、どのように感じましたか?
当時は悔しかったです。でも、今思えば、あれでよかったんだと思います。いきなり通過していれば、きっとさらに生意気になっていましたね。あのときに挫折を感じてよかったんです。
結局、全日本大会への初出場は、20歳のときでした。実は、18歳での全日本出場という、最年少記録を狙ってたんですけどね(笑)。
自由なスキーを目指して、バックカントリーシーンへ
ーその後、20歳から25歳まで、技術選には5年連続で出場されていますね。
はい。でも、あの頃は、思い描いていたこととのギャップを感じて、スキーをあまり楽しめていませんでした。
年齢を重ねて、スキー以外のいろいろな遊びを覚えたのも理由です。自由な部分を求めるようになって、1番大事にしてきたスキーが、逆に窮屈になっていたんです。
ーその頃に、バックカントリーを始められたんですね?
そうです。ほかの遊びで知り合った先輩たちが、スノーボードを買って山に登り、パウダーを滑って遊んでたんです。初めて経験したときは、「こんな世界があるのか」と驚きました。
ーその当時から一緒にスキーヤーとしての活躍を目指していた仲間やライバルの方はいらっしゃいますか?
佐々木大輔です。高校時代のスキー部の後輩ですが、プロスキーヤーになりました。プロスキーヤーの三浦雄一郎さんのお弟子さんで、一緒に基礎スキーの大会にも出てたんです。
大輔は高校卒業と同時に、「山木先輩、僕は手稲に行きますから」って宣言して。一緒に札幌市内の盤渓スキー場で練習してたので、すごいショックでした。
今思えば、大輔の気持ちも理解できます。彼が目指していたようなスキーヤーに成長するためには、手稲の環境が最高だったんですよね。
ーバックカントリーを始められて、なにか心境の変化はありましたか?
大いにありました。バックカントリーで滑るためには、技術が必要です。ゲレンデは二次元的で、平面的ですが、山に行くとそうはいかない。雪がボコボコした箇所があり、斜面も荒れています。バックカントリーにはいろいろな状況があって、三次元的なんです。
どんな状況下でも滑ることができる人こそ、うまいスキーヤーだと思いました。バックカントリーに出会って、あらためてスキーの奥深さや、おもしろさに気づかされました。
ー基礎スキーで磨いてきた技術が、バックカントリーでも生かせたのでは?
いえ、残念ながら、基礎スキーの技術は通用しなかったんです。基礎スキーでは、結構、成績も残していました。ある程度、自分でうまいと思ってたんですよ。
ところが、山へ行ったら全然滑れなかった。のちに海外でも滑ることになるんですが、最初の頃は滑っていても、周りの人たちに置き去りにされてました。「俺、スキー下手じゃん」って、落ち込みましたよ。
山木匡浩さんのインタビュー記事は下記から御覧下さい。
【山木匡浩】国内外の山々で挑戦を続けるビッグマウンテンスキーヤー/vol.2
【山木匡浩】国内外の山々で挑戦を続けるビッグマウンテンスキーヤー/vol.3
ライター
MORITAX
スキー専門誌にライター・編集者として在籍し、現場取材から選手スキー技術解説記事、ニューアイテム紹介まで幅広く担当。現在はライター・編集者として、スキーのみならずアウトドア関連の情報発信にも携わる。趣味はスキーヤーとキャンプで、スキー歴は30年以上。最近はカヌーでいろいろな湖に行くのが楽しみの一つ。