国内各地で経済破綻のリゾート施設を再開発し、業績を上げた星野リゾート。星のや東京など世界に日本のおもてなしを発信する新たな旅館業の取組みも注目されます。バブル崩壊後、衰退したリゾート産業を成長産業へ導いた星野リゾートの経営手腕を紹介します。

星野リゾートの創生から現在

星野リゾートの前身は、軽井沢で100年以上続く老舗旅館「星野温泉」です。

1914年に開業した星野温泉は、開業当時「明星館」という名で、この名称は歌人与謝野鉄幹、晶子夫妻が名付け親と言われています。

大正から昭和にかけて軽井沢は多くの文化人、著名人が利用する避暑地として栄え、「星野温泉」も与謝野夫妻の他、北原白秋、島崎藤村などが逗留していたと伝わっています。

日本の古き良き時代、温泉旅館が国内旅行の主流だった時代は過ぎ、バブル崩壊と共に旅館業が斜陽を迎えた1991年4代目当主として星野佳路氏が社長に就任します。

この当時、軽井沢だけで観光業を営んでいた中小企業に過ぎなかった「星野温泉」はその後、1995年「株式会社星野リゾート」に改名、温泉旅館を所有し運営するオーナー制からの脱却を図り、リゾート施設の運営管理に特化したマネジメントを打ち出します。

これにより、山梨県北杜市にあるリゾナーレ小淵沢、福島県磐梯町にあるスキー場を中心としたアルツ磐梯リゾート、北海道のアルファリゾート・トマムなど衰退したリゾート施設の再生に次々と成功していきます。

2005年にはゴールドマン・サックスと提携し資産管理部門を分社化。

そこからREITと呼ばれる不動産信託事業を介して、更なる資本提供、出資者を募ることでビジネスモデルの拍車化に成功します。

現在は、国内の再生事業の他、日本初のラグジュアリーホテル「星のや」、地域の観光資源に着目した「界」、日本の和を世界に発信する都市型ホテル「OMO」などの運営を行い、グローバルに発展し続けています。

 

再生請負人星野リゾート社長星野佳路氏

リゾート産業の再生請負人と呼ばれる株式会社星野リゾート4代目社長星野佳路(ホシノヨシハル)氏は、1960年長野県の軽井沢町に生まれます。

1983年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、アメリカのコーネル大学ホテル経営大学院修士課程を修了します。

当初、アメリカの日本航空開発(現在のオークラニッコー)に現地採用されますが、帰国し星野温泉に籍を置くことになります。

その後、再度渡米しアメリカシティバンクに勤めるも1991年、父親の後を継ぎ、株式会社星野リゾートの社長として就任します。

就任当時、日本のリゾート産業は転換期を迎えていました。

バブル期に全国で作られたテーマパークや大型ホテル、会員権という実態のない価値が暴落したゴルフ場やスキー場などの大規模リゾート施設。

星野社長は、これら負の遺産とも思われる施設の再生に乗り出します。その手法はこれまでのリゾート産業の常識を打ち破るものでした。

しかし、それは経営学という視点で見れば至極まっとうな定石でもあります。つまりバブル経済によって常軌を逸してしまっていたのは、従来のリゾート産業だったのかもしれません。

 

星野リゾートのマーケティング戦略

星野リゾートが成功を果たした要因は、それぞれの施設のより千姿万態ありますが、コアにあるのは、コンセプトメイクと社内のコミュニケーション、そして徹底した顧客満足度の追求にあります。

日本の観光資源は、世界的に見ても魅力あるものと思われますが、暗黒時代でもあるバブル期において、設備投資などのストラクチャ的要素に開発の力を注いできました。

そこで星野リゾートは、それぞれのリゾート施設で独自のコンセプトを打ち出し、新たな魅力あるファシリティを生み出していきます。

また、これまでの旅館業で多くみられたトップダウンの指示系統を見直し、現場の声が経営に反映できるボトムアップの組織作りと土壌を作りだします。

現場の声を経営に反映させることは、言うは易く行うは難しで実行するためには組織内のコミュニケーション能力が不可欠となります。

さらに星野リゾートの特徴的な施策として、顧客満足度のエスカレーションがあります。口コミサイトなどのインターネット対策や、利用客からアンケートを実施している施設は多々あります。

しかし星野リゾートでは、その結果を全スタッフ、経営陣に可視化できるようにして、即座に対応を考慮、アクションに移ることができる体制を作っています。

お客様に満足していただき、何度も足を運んでもらえる施設作りを、全従業員が意見を持ち寄り実施していく。

サービス業の至極当然な姿を遺却していたリゾート業界に、経営の定石を打ち出した星野リゾートの戦略が、成功したことは当然と言えるのかもしれません。

 

星野リゾートの再生事例

星野リゾートの再生戦略であるコンセプト作りとコミュニケーション。そしてそこから生まれた新たな価値と顧客満足度の実際例を紹介します。

CASE1青森小牧温泉

青森県にある古牧グランドホテルは、1973年に温泉を観光資源に開業し、東北の一大観光地として名を馳せました。

バブル経済の後押しにより東京ドーム約17個分の広大な敷地に4つのホテルを増築し、国内有数のリゾート施設として栄華を極めていました。

しかし、バブル崩壊と共にそれまでの拡大路線がマイナス効果となり衰退、低価格設定により顧客獲得を目指すも力尽き、2004年220億円もの負債をかかえ経営破綻します。

アメリカのゴールドマン・サックス社が主導で経営再建を行うことになり、ホテル運営を星野リゾートが引き受けることになりました。

星野リゾートは、典型的な旅館経営を行っていた小牧グランドホテルに新たな風を送り込みます。最初に行われたのは社員の意識改革と組織改編。

それまでのトップダウンの指示系統からミーティングなどにより各セクションからの意見を集約しようとしました。

しかし、経営破綻した組織において従業員のモチベーションは、当然のように低下しています。士気の低い現場から建設的な意見も少なく、意識改革が急務となります。

社員研修、ユニット制の組織改革、顧客満足度と達成感など、様々な方針を試行錯誤しながらも実施していきます。

その結果、従業員自ら「のれそれ青森」というコンセプトを打ち出し、「古牧温泉青森屋」とホテル名も改名。(「のれそれ」は青森弁でめいっぱい、徹底的などの意味)

青森の魅力を余す所なく発信する姿勢が徐々に評価を上げていき、破綻から5年で黒字転換に成功します。

CASE2北海道トマムリゾート

北海道のほぼ中央に位置し、大雪原の中にそびえ立つツインタワーが印象的なトマムリゾート。

1981年鳴り物入りで始まった石勝高原総合レクリエーション施設開発は、オープン当初から暗雲が立ち込めたものでした。

第三セクター方式で始まった開発は、民間企業としてホテルアルファが参加し1983年にホテル、スキー場などの複合施設「アルファリゾート・トマム」が開業します。

その後、リゾートマンションや大規模商業施設の併設も行われていきますが、時は既にバブル崩壊に直面し、当初、ゴルフ会員権やリゾート会員権などの収益を見込んで始まった開発事業はとん挫します。

主要銀行である北海道拓殖銀行の破綻も追い打ちをかけ、1998年アルファコーポレーションが負債総額1,061億円で自己破産。

関連企業も次々と連鎖倒産に追い込まれました。

その後、北海道の地場産業である関兵精麦や加森観光が施設の残務を続けてきましたが、2005年、誰もが慎重にならざるえなかったバブルの遺産ともいうべきトマムリゾートの運営を星野リゾートが引き継ぐことになります。

まずは、赤字体質の要因でもあった、巨大な宿泊施設を持ちながら冬のスキー客だけに頼るビジネスモデルからの脱却を図ります。

ここでも、夏場の集客に繋がる新たなるアクティビティを打ち出したのは、現地従業員からのアイディアでした。

夏場のゴンドラやリフトの点検時に偶然見ることができた雲海を、夏場の山の観光資源に。このアイディアが功を奏し、年間10万人以上の集客を生み出すことに成功します。

その他、氷の教会、水の教会でのブライダル、ホタルロードなどトマムならではのソフトを次々と打ち出しています。

また、トマムの雪質は世界でもトップクラスの環境であることに注目し、既存のスキー場になかったアクティビティを開設していきます。

2015年には『2015 XTERRAジャパン・チャンピオンシップ』も開催しました。

日本のリゾート産業を席巻する星野リゾート。バブル経済がもたらしたリゾート開発の斜陽を健全な経営サイクルに再生しているかのようです。本来、観光大国であってもしかるべき日本のリゾート産業ですが、日本古来のマネジメント手法が国際経済に置いていかれているのかもしれません。日本の素晴らしい伝統は守りつつ、世界に負けない観光大国の実現に星野リゾートの経営手腕は学ぶべきものが多々あるのではないかと思います。

ライター

Greenfield編集部

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