村上祐介さんのプロフィール
基礎スキーからスタートしたスキー人生
ースキーをはじめたきっかけを教えてください。
父がニセコのヒラフスキー場(現:ニセコ東急 グラン・ヒラフ)で、非常勤のインストラクターをしていたんです。幼稚園の頃から、父の後ろを追いかけるように滑っていました。
ー物心ついたときから、身近にスキーがあったのですね。
そうですね。北海道の倶知安町出身なんですが、すぐ近くにニセコのスキー場がありました。それで小学4年生のときに、はじめてチームに所属したんです。ちょうど、ヒラフスキースクールのジュニアチームが立ち上がった頃ですね。
ニセコという土地柄もあって、周りにはモーグルをやっている人とか、自由に山で遊んでいるスキーヤーとかが多かったですね。
ーそこから競技スキーに転向したのですか?
小学4年生から6年生までは基礎スキーをやっていました。全道で1位になったこともあるんですよ。
ー北海道1位とは、すごいですね!
でも、町内のアルペン競技の大会に出場したら、同級生に全然勝てなかったんです。そこで悔しい思いをして、はじめてアルペンスキーに興味をもちました。中学生になってからは、「ニセコジュニア」というチームに入りました。
ー最初に経験されたのがアルペンスキーではなく、基礎スキーというのはめずらしいのでは?
当時、アルペンスキーが行われていたのは、小樽や札幌がメインだったんです。ニセコでは、フリースタイルスキーやノルディックが盛んでしたね。自分は中学生・高校生とアルペンスキーを経験しましたが、地元ではめずらしかったと思います。
ー大会には出場されたのでしょうか?
全国大会への出場は叶いませんでした。中学3年生で挑戦したときは、北海道予選で転倒してしまったんです。高校3年生のときのインターハイ予選も15位で、惜しくも上位13位までに入れず敗退でした。
結果が残せなかったこともあって、高校卒業と同時にアルペンスキーからは引退しました。
自衛隊入隊とともに挑戦した技術選の世界
ー高校卒業後は、どのような道に進まれたのでしょう?
父が自衛官だったこともあり、同じ自衛隊に入隊しました。高校まで、スキーに結構お金をかけてもらっていたので、大学まで行くのも違うかなと思って。
ー自衛隊に入隊後は、どのような形でスキーを続けられたのでしょうか?
当時、自衛隊スキー連盟に所属していました。そこに全日本スキー技術選大会(以下、技術選)に出場している先輩がいたんですよ。その影響もあって、課外活動として、軽いノリでスキーを再開しました。
ー技術選にも挑戦されたのですか?
はい。簡単に予選通過できると思っていましたが、結果は全然ダメでした(笑)。
ーこれまでのご経験が通用しなかったのですね。
そうですね。技術選の北海道予選に出場するためには、まずは自衛隊予選があるんです。小学校の頃に基礎スキー大会で優勝したし、アルペンスキーも経験していたので、自信はあったんですけどね。
そのときは、なんで思うような点数が出ないのか、自分でもまったくわかりませんでした。そんな疑問を抱いたまま、1年目が終わってしまいました。
ー次の年も挑戦されたのでしょうか?
実は、翌年も自衛隊予選ではダメだったんです。連盟枠推薦で、なんとか北海道予選には出場できました。ところが、案の定、予選落ち(笑)。
当時のトップ選手の滑りは、確かにすばらしかったんです。でも、技術選出場のボーダーラインにいる選手の滑りを見ると、「なんでこんな奴が点数出せるんだ?」って思ってました。今思えば、自分が単純に下手だっただけなんですけどね(笑)。
ー結果が出るまで、挑戦が続いたのですね。
はい。1~2年目はそんな感じで、3年目は仕事の都合で出場できませんでした。4~6年目はあと一歩のところまでは行けたのですが、予選突破ラインには届かず。7年目にして、ようやく出場権を獲得しました。
トップレベルを知ることで飛躍できた
ー本選に出場できるようになった理由は、なんだったと思われますか?
トップ選手の滑りを見たことですね。
6年目の挑戦のとき、点数が出ないことを不思議に思って、自費で技術選を観に行ったんです。ちょうどそのとき、リフトから柏木義之さん(技術選で6回の優勝を誇るトップ選手)の滑りが見えたんです。
ートップ選手の滑りが刺激になったと。
かなり衝撃を受けました。とにかくスキーの抜けや、滑りのキレがすごくて驚きました。
ートップレベルを目の当たりにして、マインドが変わったのですね。
そうですね。それがきっかけで、挑戦7年目にして、ようやく北海道予選12位になりました。技術選本選につながったんです。技術選の決勝に残れるようになったのは、そこから2大会後だったと思います。
ー大きく飛躍されたのですね。
決勝まで進められたきっかけとしては、ほかにもマテリアルチェンジがあったのも大きかったです。
変更前のメーカーでは、自分が北海道のトップだったので、ほかの選手に教える状態が続いていました。「このままでは突き抜けられない」と感じて、教えてもらう側になれるメーカーに移籍したんです。
コンペティション以上に魅力を感じた、クリエイティブな世界
ー最高リザルトは22位とお聞きしました。トップ10の壁は高かったのでしょうか?
それもあります。あとは自分自身、技術選の成績にあまり執着していませんでした。もちろん、悔しい思いはあったんですが、上昇志向タイプではなかったんです。
大会や仲間と滑ることが楽しくて、それがスキーを続けるモチベーションになってました。選手としては、絶対NGですけどね(笑)。
ー技術選から距離を置くようになったのですか?
技術選に向けての練習はしてました。でも、バックカントリーに行ったり、気分転換にスノーボードをやったり。スキーの時間をすべて技術選に注ぐ、という感じではありませんでしたね。
ー昨シーズンで技術選を引退されました。19歳から挑戦して、26年間のチャレンジでしたね。
実は、途中で一度、技術選挑戦をやめているんです。仕事が忙しくなってしまい、3大会出場しませんでした。
大会出場を休んでいる間も、技術選に挑戦する選手へのコーチングは続けていました。いろいろ落ち着いたら、また挑戦したくなってきて、40歳のときに戻ったんです。
ー40歳で復帰されたあと、引退を決められたのはなぜでしょう?
理由のひとつは、20代で半月板をケガしてしまったことです。そこからずっとよくならず、滑ればひざに水がたまる状態でした。
あとは、仕事が忙しくなったというのもあります。技術選挑戦の最後2シーズンくらいは、土日どちらか滑れたらいいほうでした。
ー本業との両立は大変だったのでしょうね。
そうですね。その頃からYouTubeをはじめたんですが、撮影のほうが楽しくなってきてしまって。雪上にいても、選手としての活動に集中できていませんでした。
体力的にもきつかったですし、いよいよ限界だったのかもしれません。次世代の選手も次々と出てきていたので、技術選に出るのはもうやめようと思いました。
自衛隊を退官し、より自分らしくいられる舞台へ
ー技術選への未練はなかったのでしょうか?
「選手としてはやりきった」って感じでした。改めて自分の時間の使い方を考えてみたんです。そしたら、動画を撮って、配信して、イベントの企画もして、セッションやって、という活動がはっきりと頭に浮かびました。
自分自身も好きなことだし、求められていることも感じてましたからね。
ーやりたいことが見つかったと同時に、定年前に仕事を辞められていますね。
きっかけはコロナですね。コロナで世界があっという間に変わって、新しい生活習慣になりました。それと同時に、「安定した人生を歩み続けようとしても、突然それができなくなることもあるんだ」と思うようになったんです。
ーそれで退職という大きな決断をされたと。
そうですね。よく“一度しかない人生”といいますよね。自分の意思以外で変わってしまう世の中なら、「一番やりたいことをするために、自分自身のタイミングで人生を変えよう」と決めたんです。
ー収入など、生活していく面で不安はなかったのでしょうか?
幸い子どもたちは大きくなっていましたし、一応、妻も理解してくれました。
それに自衛官だと、職業柄、表立った活動ができなかったんです。たとえば、「いい雪降ったな。撮影に行きたいな」って思っても、さすがに仕事は休めないですからね(笑)。当時は、結構ストレスを抱えていました。
ーご家族の理解もあって、決意を固められたのですね。
はい。「この先どうなるかわからないけど、環境や土台は、これまでの活動で出来上がっているはず」って考えたんです。それで思い切って、自分のやりたいことをやろうと決めました。
村上祐介さんのインタビュー記事は下記から御覧下さい。
【村上祐介】自衛官からの転身!メディアを活かしスキーで挑戦する異色のスキーヤー/vol.2
【村上祐介】自衛官からの転身!メディアを活かしスキーで挑戦する異色のスキーヤー/vol.3
ライター
MORITAX
スキー専門誌にライター・編集者として在籍し、現場取材から選手スキー技術解説記事、ニューアイテム紹介まで幅広く担当。現在はライター・編集者として、スキーのみならずアウトドア関連の情報発信にも携わる。趣味はスキーヤーとキャンプで、スキー歴は30年以上。最近はカヌーでいろいろな湖に行くのが楽しみの一つ。