スキー界のさまざまな分野で活躍するスキーヤーであり、ビデオグラファーでもある村上祐介さん。スキーのコンペティションでの挑戦に区切りをつけ、もっている可能性を信じて、クリエイターという新たな世界に飛び込みました。今回は、村上祐介さんに大きな決断に至った理由についてお話を伺いました。

村上祐介さんのプロフィール
村上佑介 ムラカミ ユウスケ

1976年生まれ。出身は北海道倶知安町。小学生の頃から基礎スキーに取り組む。自衛官時代を含めると、通算26年、全日本スキー技術選手権大会に挑戦し続ける。2022年、自らのやりたいことを追い求め、自衛官を退官。現在はスキーの知識・経験を生かしながら、映像クリエイターとして活躍の場を広げている。スキーのレッスン動画や、大会の舞台裏を紹介するYouTubeチャンネル、「MURAKIN SKIING(チャンネル登録者数3.7万人)」を運営。また、北海道で活躍するスキーヤーで結成された「チーム金閣寺チャンネル(チャンネル登録者数1.99万人)」も自らマネージし、絶大な人気を誇る。ノンジャンルのスキークラブ、「INVOLVES CRUISING CLUB」も主宰。

 

基礎スキーからスタートしたスキー人生

ースキーをはじめたきっかけを教えてください。

父がニセコのヒラフスキー場(現:ニセコ東急  グラン・ヒラフ)で、非常勤のインストラクターをしていたんです。幼稚園の頃から、父の後ろを追いかけるように滑っていました。

ー物心ついたときから、身近にスキーがあったのですね。

そうですね。北海道の倶知安町出身なんですが、すぐ近くにニセコのスキー場がありました。それで小学4年生のときに、はじめてチームに所属したんです。ちょうど、ヒラフスキースクールのジュニアチームが立ち上がった頃ですね。

ニセコという土地柄もあって、周りにはモーグルをやっている人とか、自由に山で遊んでいるスキーヤーとかが多かったですね。

ーそこから競技スキーに転向したのですか?

小学4年生から6年生までは基礎スキーをやっていました。全道で1位になったこともあるんですよ。

ー北海道1位とは、すごいですね!

でも、町内のアルペン競技の大会に出場したら、同級生に全然勝てなかったんです。そこで悔しい思いをして、はじめてアルペンスキーに興味をもちました。中学生になってからは、「ニセコジュニア」というチームに入りました。

ー最初に経験されたのがアルペンスキーではなく、基礎スキーというのはめずらしいのでは?

当時、アルペンスキーが行われていたのは、小樽や札幌がメインだったんです。ニセコでは、フリースタイルスキーやノルディックが盛んでしたね。自分は中学生・高校生とアルペンスキーを経験しましたが、地元ではめずらしかったと思います。

ー大会には出場されたのでしょうか?

全国大会への出場は叶いませんでした。中学3年生で挑戦したときは、北海道予選で転倒してしまったんです。高校3年生のときのインターハイ予選も15位で、惜しくも上位13位までに入れず敗退でした。

結果が残せなかったこともあって、高校卒業と同時にアルペンスキーからは引退しました。

 

自衛隊入隊とともに挑戦した技術選の世界

ー高校卒業後は、どのような道に進まれたのでしょう?

父が自衛官だったこともあり、同じ自衛隊に入隊しました。高校まで、スキーに結構お金をかけてもらっていたので、大学まで行くのも違うかなと思って。

ー自衛隊に入隊後は、どのような形でスキーを続けられたのでしょうか?

当時、自衛隊スキー連盟に所属していました。そこに全日本スキー技術選大会(以下、技術選)に出場している先輩がいたんですよ。その影響もあって、課外活動として、軽いノリでスキーを再開しました。

ー技術選にも挑戦されたのですか?

はい。簡単に予選通過できると思っていましたが、結果は全然ダメでした(笑)。

ーこれまでのご経験が通用しなかったのですね。

そうですね。技術選の北海道予選に出場するためには、まずは自衛隊予選があるんです。小学校の頃に基礎スキー大会で優勝したし、アルペンスキーも経験していたので、自信はあったんですけどね。

そのときは、なんで思うような点数が出ないのか、自分でもまったくわかりませんでした。そんな疑問を抱いたまま、1年目が終わってしまいました。

ー次の年も挑戦されたのでしょうか?

実は、翌年も自衛隊予選ではダメだったんです。連盟枠推薦で、なんとか北海道予選には出場できました。ところが、案の定、予選落ち(笑)。

当時のトップ選手の滑りは、確かにすばらしかったんです。でも、技術選出場のボーダーラインにいる選手の滑りを見ると、「なんでこんな奴が点数出せるんだ?」って思ってました。今思えば、自分が単純に下手だっただけなんですけどね(笑)。

ー結果が出るまで、挑戦が続いたのですね。

はい。1~2年目はそんな感じで、3年目は仕事の都合で出場できませんでした。4~6年目はあと一歩のところまでは行けたのですが、予選突破ラインには届かず。7年目にして、ようやく出場権を獲得しました。

トップレベルを知ることで飛躍できた

村上佑介 ムラカミ ユウスケ

ー本選に出場できるようになった理由は、なんだったと思われますか?

トップ選手の滑りを見たことですね。

6年目の挑戦のとき、点数が出ないことを不思議に思って、自費で技術選を観に行ったんです。ちょうどそのとき、リフトから柏木義之さん(技術選で6回の優勝を誇るトップ選手)の滑りが見えたんです。

ートップ選手の滑りが刺激になったと。

かなり衝撃を受けました。とにかくスキーの抜けや、滑りのキレがすごくて驚きました。

ートップレベルを目の当たりにして、マインドが変わったのですね。

そうですね。それがきっかけで、挑戦7年目にして、ようやく北海道予選12位になりました。技術選本選につながったんです。技術選の決勝に残れるようになったのは、そこから2大会後だったと思います。

ー大きく飛躍されたのですね。

決勝まで進められたきっかけとしては、ほかにもマテリアルチェンジがあったのも大きかったです。

変更前のメーカーでは、自分が北海道のトップだったので、ほかの選手に教える状態が続いていました。「このままでは突き抜けられない」と感じて、教えてもらう側になれるメーカーに移籍したんです。

 

コンペティション以上に魅力を感じた、クリエイティブな世界

ー最高リザルトは22位とお聞きしました。トップ10の壁は高かったのでしょうか?

それもあります。あとは自分自身、技術選の成績にあまり執着していませんでした。もちろん、悔しい思いはあったんですが、上昇志向タイプではなかったんです。

大会や仲間と滑ることが楽しくて、それがスキーを続けるモチベーションになってました。選手としては、絶対NGですけどね(笑)。

ー技術選から距離を置くようになったのですか?

技術選に向けての練習はしてました。でも、バックカントリーに行ったり、気分転換にスノーボードをやったり。スキーの時間をすべて技術選に注ぐ、という感じではありませんでしたね。

ー昨シーズンで技術選を引退されました。19歳から挑戦して、26年間のチャレンジでしたね。

実は、途中で一度、技術選挑戦をやめているんです。仕事が忙しくなってしまい、3大会出場しませんでした。

大会出場を休んでいる間も、技術選に挑戦する選手へのコーチングは続けていました。いろいろ落ち着いたら、また挑戦したくなってきて、40歳のときに戻ったんです。

ー40歳で復帰されたあと、引退を決められたのはなぜでしょう?

理由のひとつは、20代で半月板をケガしてしまったことです。そこからずっとよくならず、滑ればひざに水がたまる状態でした。

あとは、仕事が忙しくなったというのもあります。技術選挑戦の最後2シーズンくらいは、土日どちらか滑れたらいいほうでした。

ー本業との両立は大変だったのでしょうね。

そうですね。その頃からYouTubeをはじめたんですが、撮影のほうが楽しくなってきてしまって。雪上にいても、選手としての活動に集中できていませんでした。

体力的にもきつかったですし、いよいよ限界だったのかもしれません。次世代の選手も次々と出てきていたので、技術選に出るのはもうやめようと思いました。

 

自衛隊を退官し、より自分らしくいられる舞台へ

村上佑介 ムラカミ ユウスケ

ー技術選への未練はなかったのでしょうか?

「選手としてはやりきった」って感じでした。改めて自分の時間の使い方を考えてみたんです。そしたら、動画を撮って、配信して、イベントの企画もして、セッションやって、という活動がはっきりと頭に浮かびました。

自分自身も好きなことだし、求められていることも感じてましたからね。

ーやりたいことが見つかったと同時に、定年前に仕事を辞められていますね。

きっかけはコロナですね。コロナで世界があっという間に変わって、新しい生活習慣になりました。それと同時に、「安定した人生を歩み続けようとしても、突然それができなくなることもあるんだ」と思うようになったんです。

ーそれで退職という大きな決断をされたと。

そうですね。よく“一度しかない人生”といいますよね。自分の意思以外で変わってしまう世の中なら、「一番やりたいことをするために、自分自身のタイミングで人生を変えよう」と決めたんです。

ー収入など、生活していく面で不安はなかったのでしょうか?

幸い子どもたちは大きくなっていましたし、一応、妻も理解してくれました。

それに自衛官だと、職業柄、表立った活動ができなかったんです。たとえば、「いい雪降ったな。撮影に行きたいな」って思っても、さすがに仕事は休めないですからね(笑)。当時は、結構ストレスを抱えていました。

ーご家族の理解もあって、決意を固められたのですね。

はい。「この先どうなるかわからないけど、環境や土台は、これまでの活動で出来上がっているはず」って考えたんです。それで思い切って、自分のやりたいことをやろうと決めました。

村上祐介さんのインタビュー記事は下記から御覧下さい。

【村上祐介】自衛官からの転身!メディアを活かしスキーで挑戦する異色のスキーヤー/vol.2 
【村上祐介】自衛官からの転身!メディアを活かしスキーで挑戦する異色のスキーヤー/vol.3 

スキーのコンペティションという舞台で挑戦を続けていた村上祐介さん。常にスキーに楽しさを求めていた村上さんは、コロナ禍によって、急激な時代の変化を目の当たりにしました。ここから、自分自身らしくいられる場所、必要とされる場所で、充実した毎日を送りたいと考えるように。次回のインタビューでは、現在の活動のベースとなっているスキーチームのことや、村上さんが展開するスキークラブについてお話を伺います。

ライター

MORITAX

スキー専門誌にライター・編集者として在籍し、現場取材から選手スキー技術解説記事、ニューアイテム紹介まで幅広く担当。現在はライター・編集者として、スキーのみならずアウトドア関連の情報発信にも携わる。趣味はスキーヤーとキャンプで、スキー歴は30年以上。最近はカヌーでいろいろな湖に行くのが楽しみの一つ。