競技人口と市場規模の推移
国土交通省の観光庁がまとめた資料に、公益財団法人日本生産性本部「レジャー白書2013」の集計データがあります。
これによると、スキー・スノーボード人口は、1998年に1,800万人越えをピークに減少傾向にあり、2013年ではスキー・スノーボード合計で770万人と約40%まで減っていることになります。
2013年以降、現在にかけて横ばいから若干の増加傾向にあり、これは休暇数の増加などにより、レジャー人口全体が増加傾向にあることが要因と思われます。
出典 国土交通省スキー、スケート、スノーボードなどの関連商品小売販売市場の推移を見ると、1991年の約4,292億円をピークに、2012年には約4分の1の約1,124億円となっています。
1991年とは、バブル経済の崩壊が決定的となった年で、日本経済の分岐点とも言われる年になります。以降は、経済後退と比例する形で産業規模も減少していきます。
特筆する点としては、2000年以降、それまでのスノーレジャーの主流であったスキー、スケートの市場規模と、スノーボードの市場規模がほぼ同等にまでなっている点でしょう。
全体として約40%に縮小している市場規模ですが、スキー、スケートだけを見ると、さらに約14%まで落ち込んでいることがわかります。
2011年以降は、横ばいから若干の上昇傾向にあるようですが、過去のスキーブームとは、明らかに市場形態が変わってきているのです。
スキーレジャーブームの到来
1961年、日本国内は空前のレジャーブームが巻き起こります。
高度経済成長期を迎え、住宅やカラーテレビ、マイカーなどが急激に普及されていく時代、若者を中心に、レジャーの大衆化・大型化が進んで行きます。
戦後最長のいざなぎ景気により、戦後復興から急激に経済が発展したことから、人々は、余暇(遊び)を謳歌できるほどの余裕も生まれはじめ、デパート、スポーツ施設、旅行などのレジャーブームが生まれました。
この年、スキーを楽しむ人は年間100万人を突破し、スキー場の開発、整備も進んで行きます。当時のスキーは、後に言う直滑降に近く、スピードを重視した滑り方から「神風スキーヤー」と呼ばれていたそうです。
スキーブームの席巻
1972年の札幌オリンピックをきっかけにスキーブームが到来します。
札幌オリンピックでは、70m級ジャンプで笠谷幸生が金メダル、金野昭次が銀メダル、青地清二が銅メダルとメダルを独占し、「日の丸飛行隊」呼ばれ、一世を風靡しました。
国民はウィンタースポーツへの熱が高まり大衆化がすすみ、とくにスキーの人気が高騰していきます。
戦後から続いた高度経済成長が、オイルショックなどの影響で終わりを告げ、省エネ、節約という言葉が飛び交う時代に入り、近場への旅行が主流となったことからも、スキーリゾートが人気となった要因のひとつと言えます。
この1972年は、当時の田中角栄首相による日中国交正常化が行われた年で、その友好の証としてパンダが来日します。上野動物園では連日、大行列ができるパンダブームがあった年です。
また、沖縄の返還、グァム島での旧日本兵救出、浅間山荘事件など、日本が近代化に向けて戦後処理の多くが終結を迎えていた時代でもあります。
バブル経済を背景に
70年代後半から、レジャー産業は停滞期に入っていましたが、バブル経済を背景にリゾート法の制定から、全国に大型リゾート開発の波が広がっていきます。
1982年に東北新幹線と上越新幹線が開通したこともあり、リゾートスキー場への集客が高まっていきます。
1987年には原田知世さん主演の映画「私をスキーに連れてって」が大ヒット。劇中挿入歌の松任谷由実さんが歌う「恋人がサンタクロース」とスキー場に集う若者の姿は、バブルリゾートの代名詞ともなりました。
この頃から、現在では負の遺産ともなっている大型リゾート施設の建設ラッシュが始まります。
ゴルフ場、スキー場、リゾートマンション、リゾートホテル、大型テーマパーク…特に高級志向が強く会員制や法人向け保養施設など、ハイクオリティなリゾート開発が続きます。
この時期に起きた代表的な出来事として、
- 国鉄の民営化
- 携帯電話の誕生
- NTT株上場
- 大阪万博
- 東西ドイツ統一
- 東京ディズニーランドの開業
などがあり、経済的にも大きな動きを見せたころです。
社会的には、「花キン」「ボディコン」「お立ち台」などが流行語となったり、マドンナ、マイケルジャクソンなど大物アーティストが来日したりするなど、バブル経済の栄華を色濃く映した時代です。
スキー場とリゾートホテルが併設した大型リゾート施設により、スキー客の数も年々増え続けていきます。
経済崩壊からの遷移
1991年、バブル経済の崩壊を迎えると、リゾート産業は斜陽の一途を辿り始めます。
前年の1990年からスキー板の輸入関税が撤廃されてこともあり、国内のスキーメーカーは倒産、事業縮小を余儀なくされていきます。
1991年には「ハガスキー」が、1996年には「カザマスキー」が倒産へと追い込まれました。1997年には「ヤマハ」がスキー事業から撤退し、1998年には「西沢」も長野オリンピック終了後、全従業員を解雇して事業から撤退していきます。
こうした中、バブル期に構想、建設が始まった大型施設がバブル崩壊後に次々オープンしていきます。
サッカーJリーグが始まった1993年には、千葉県船橋に世界最大の屋内スキー場、通称「ザウス」の営業が開始されます。同じ年、ヤマハ北海道リゾートは北海道赤井川村にキロロリゾートを開業。
1997年には、長野新幹線の開業、東京湾アクアラインの開通などインフラの整備も進みました。
そうして迎えた1998年長野オリンピック。日本勢は、金メダル5個、銀メダル1個、銅メダル4個と過去最高の成績を残します。
国内が沸いたオリンピックを背景に、この年スキー・スノボーを楽しむ人々の数は1,800万人を超えピークを迎えます。しかし、以後急激にその数は減少し、大型リゾート施設も閉鎖を余儀なくされていきます。
現在では、遺跡のように廃墟化された施設が全国に残されています。
過ぎ去った栄華から学ぶもの
近年、地方治自体や国内外の民間企業が、スキー場の再開発に乗り出し、一定の成果を上げているようです。
2015年から2017年にかけての集計データは、まだ発表されていませんが、スキー・スノボー人口は増加傾向にあると言われています。
スキー業界にだけ言えることではありませんが、日本経済の転換期であったバブル経済は、スポーツの楽しみ方や成長を履き違えていた感が否めません。
スキー、スノボーを楽しむために高級ホテルは必要だったのか、ボーダレス化していく世界経済に日本メーカーの存在価値はどこにあったのか。
一時代の栄枯盛衰から、学ぶべきことは多くあるのではないでしょうか。
バブル崩壊とともに生まれたサッカープロリーグ「Jリーグ」は、ホームタウンとなる地域との共存と、身の丈に合った球団経営を協会が推奨して行ってきました。
平成不況が長く続く時代も、大きな経済破綻もなく、世界的にも安定した協会運営を行っています。
ウィンタースポーツにおいても、近年、フィギュアスケート、フリースタイルスキー、スキージャンプをはじめ、スノーボード競技においても世界に通用する若い選手が台頭して、人気をあげてきています。
自然豊かな山々に恵まれ、四季のある日本では、ウィンタースポーツに触れることは難しい環境ではありません。
北海道、東北を代表する雪国では、学校教育にもスキー、スケートが取り上げられている地域も多くあります。
一過性のバブル経済のような特効薬がなくても、競技人口となり得るキャパシティーと、恵まれた自然環境のポテンシャルがあるのですから、スキー・スノーボードが持つ市場性は、まだまだ埋れているのはないでしょうか。
日本人の働き方が変わりつつあるこれからの時代、増えていく休日を余暇に当てる人は今以上に増えてくるでしょう。
趣味の多様化とグローバル化が進む現代において、ITやマーケティングを駆使した新しいスキーリゾート経営に期待したいと思います。
ライター
Greenfield編集部
【自然と学び 遊ぶをつなぐ】
日本のアウトドア・レジャースポーツ産業の発展を促進する事を目的に掲げ記事を配信をするGreenfield編集部。これからアウトドア・レジャースポーツにチャレンジする方、初級者から中級者の方々をサポートいたします。