皆さんは盲目でありながらもスケートボードに打ち込むブラインドスケーターという存在をご存知でしょうか? 今回の取材では大内さんが病気の急激な進行から立ち直るきっかけとなった話、そしてメディアに取り上げられるまでになった激動のストーリーを伺いました。
 

盲目スケーターのダン・マンシーナとの交流

ブラインドスケーター・大内龍成

ーパート2もまずはインタビューに際した自己紹介からお願いいたします。

大内龍成。年齢は21歳でスケート歴は7年。あん摩マッサージ指圧師と鍼灸師の資格取得のために福島から埼玉に出てきて、今は学生をしています。

小学校1年生の頃に進行性の目の病気「網膜色素変性症」を申告されてしまい、その後高校生の頃に急激に進行したことで白杖(視覚障害者が日常生活で使う杖)を使わざるを得なくなってしまいました。

スケートボードは14歳の頃に始めたので、わずか3~4年で強制的にブラインドスケーターとしての活動を余儀なくされてしまったんです。

ーパート1でお話いただいた、大内さんが立ち直るきっかけとなったダン・マンシーナとは、同じブラインドスケーターとして交流はあるのでしょうか?

あります。でもそれはかなり最近の話なんです。

自分は17~18歳で急激に目が悪くなってブラインドスケーターになり、19歳で専門学校に通うために埼玉にきたんですが、実はこうやってメディアに出れるようになったのは首都圏に移住してからなんです。そこで受けた取材がきっかけで、いろいろな方に知ってもらうことができました。

彼に関しては、多分ロイター通信で受けた取材を通じて、たまたま自分のことを見てくれたんだと思います。気がついたらinstagramもフォローしてくれていたので、自分もフォローを返してメッセージのやりとりをするようになりました。

ーメッセージをやりとりするほどの仲になったのならいつかは会いたいですね。

そうなんですけど、実はそれも実現しそうなところまで来てるんですよ。以前NHKワールドという番組に出させてもらったんですけど、その時の放送の反響がすごく良くて、プロデューサーさんから続編をやろうという話をもらったんです。

次はどんな事がやりたいか聞かれたので、最初は冗談半分だったんですけど「アメリカに行きたいです!」と話したら本当に叶いそうで。今はそのための手段を整えてくれているみたいです。

あとはケリー・ハートにも会いたいんですよね。自分のスポンサーでもあるéSのライダーだし、個人的にすごく好きなので。日本にはコンテストのジャッジなどでちょくちょく来てるんですけど、まだ会えてないですし、自分からブランドの本拠地のLAに行って滑りを見てもらいたいです。

もし会えたなら、自分は日本のéSのライダーだっていって 「Kelly “Hart” is my “heart”」って、ラップしてホーミーになりたいですね(笑)。

今度は40~50分の長い尺になる予定なので本当に嬉しいし、皆さんに楽しんでもらえるように企画を練っていきたいなと思ってます。

 

通信社からの取材がきっかけでメディア露出が増加

ブラインドスケーター・大内龍成

ーすごく良い話ですね! でも首都圏に出てきたとはいえ、そこまでメディアに取り上げてもらうことはそうそうないと思うんですが、最初はどんな事がきっかけだったんですか?

初めて出たメディアは岩澤史文というスケーターがやってるMDAskaterのYouTubeチャンネルです。今自分がサポートを受けているSKiP FACTORYで滑ってたら、たまたま彼も滑ってて声をかけられたのがきっかけです。

それからいろいろなところから話が来るようになって、NHKには1年間密着取材してもらいました。先ほども少しお話させていただいた、ロイター通信からも取材依頼が来たことで、各国のメディアに出させてもらうことができたんです。

そうしたら今度は国内の共同通信からも依頼がきて、そこから日本全国の色々なメディアが注目してくれるようになりました。そして、新聞社やテレビ局からも出演依頼が来るようになったという感じですかね。

この前はそれで松岡修造さんにも会いましたよ。本当に面白い方で、テレビの印象そのままの熱さで流石の貫禄でしたね。

ーどころでブラインドスケーターといえば、ダン・マンシーナの他にもジャスティン・ビショップなども有名ですが彼についてはどう思いますか?

これも面白い話なんですけど、実はNHKの取材でジャスティン・ビショップにも会いに行こうっていう話になっているんです。

彼の取り組みのひとつに、自閉症を持っている子ども達にスケートボードを通じて人生の面白さや社会観を伝えるっていう活動があるですけど、本当に素晴らしいことだと思います。自分がやりたいブラインドスケートボードシーンの確立ってというところにも近いものを感じたんです。

だからTV番組の企画で直接ジャスティンのところに行って、彼と活動を共にすることで様々な経験をして、アメリカで学んだことを自分が日本に還元したいんです。

ジャスティン・ビショップはラスベガス在住でダン・マンシーナがミシガンなので、NHKの番組ではネバダ、ミシガン、カリフォルニアに行きたいと考えています。なんとかして実現させたいですね。

目が見えなくなり研ぎ澄まされた聴覚

ブラインドスケーター・大内龍成

ー専門学校に通うために埼玉に出てきたとのことですが、それは今のようにブラインドスケーターとしての活動を意識してのことだったのですか?

いえ、そこは正直全く意識していませんでした。「スケートボードで有名になってやろう!」 とか、こうやって取材を受けたり、いろいろな人に応援してもらったりっていう現実は、想像もしていませんでした。

本当、ただ滑れればいいやっていうだけでした。

それに、基本的に各県に盲学校と呼ばれる目の見えない人のための施設がひとつはあるので、最初は地元の福島の学校で学ぼうと思っていたんです。

そこには寮もあるし問題なかったんですけど、いろいろな事情が重なって入学できなかったんです。

そこで改めて自分が行きたいところ、行けるところを条件に探したら見つかったのが今の所沢の施設なんです。だから今は入学時に思い描いていたこととは全く別の予期せぬ状況になってきて、首都圏に住むようになったことで人生が好転していったんです。

ーブラインドスケーターとして活動し始めて数年になりますが、病気が進行する前と後で自身のライディングや日常生活はどう変わりましたか?

まず音で入ってくる情報に強くなりましたね。音にも個々で癖があるので、そういうのを意識して聞くようになったことで仲間達の音がわかるようになったんです。

それはスケートボードのライディングに関しても同様で、トリックの良し悪しも耳で判断できるようになりました。

例えば仲間同士で滑っていて誰かがトリックを成功させるとその時に「今のすげえ良かったんじゃない!? 一番キレイなメイクだったよね!!」っていうと、「お前なんで見えないのにわかるの!? 確かにすげえ気持ちよかったよ」って声が返ってくるんです。

自分のここ数年は音だけでスケートボードをしているので、どんなトリックかまではわからなくても、クオリティなら音でわかるようになりました。

だから目が見えない分、聴覚が研ぎ澄まされた感覚はあります。結局いい音がした時のトリックって、ライダーもすごく気持ち良い瞬間なんです。

 

活動を続ける上でのしかかる負担

ブラインドスケーター・大内龍成

ーでは日常生活はどう変わりましたか? 例えばブラインドスケーターとして活動するにしても遠征に行ったりということもあると思うのですが、目が見えないと苦労も多いのではないでしょうか!?

移動に関しては基本的には近くの駅まで電車で行ってあとはタクシーです。利用する駅に事前に連絡しておくと、着いてからは駅員さんが介助してくれるので危ない目に遭うこともないですし、乗り換えが複雑でも全て案内してくれるので迷うこともなく助かっています。

ただ最寄駅からはタクシーで移動せざるを得ないので、そこで他の人より移動費がかかってしまうのが負担になっているところです。

障害者手帳を見せると1割引にはなるんですが、コンテストに出る時の遠征だけではなく、普段の練習でスケートパークに通う時もタクシーは欠かせないので。

それにスケートパークは騒音の問題もあって僻地や工場・倉庫街の立地が多いので、交通アクセスが良いところって少ないんです。でもタクシー代は自分にとってスケートボードを続けるための必要経費なので仕方ないかなと。

反面、自分のこういった気持ちをわかってくれて、なおかつこの活動に手をあげてくれるスポンサーさんがいれば、すごく助かるなと思っています。

実際に笹岡建介さんや岡本碧優さんといった方々はMKタクシーという会社がスポンサーについているので、可能性はゼロではないと思っています。自分がこうやってメディアに取り上げてもらい続けることで、少しでもその可能性が広がったらいいですね。

 

周囲からの目と仲間の反応

ブラインドスケーター・大内龍成

ー今では大内さんたちの存在もありブラインドスケーターの認知度もかなり上がってきたと思いますが、世間や友人の反応に変化はありましたか?

周りの変化は着実に感じています。でもそれが周囲の方々と仲間では全然違うんです。というのも、そこにはちゃんとした理由があって、それを聞いた時に改めて仲間の大切さを身に染みて感じました。

まず周囲の方々は、メディア出演の効果もあって自分のことを凄いっていってくれる方が増えました。もちろん、それはそれですごいありがたいですし、励みにもなるので、それで頑張れているところもあります。そういう意味では認知度が上がったことはすごく良いことだと思います。

でも仲間たちは、「今さらお前のことを凄いだなんていわない。それはお前をちゃんとしたスケーターとして見ているからだ。目が見えようが見えまいが同じスケーターだろ!? 俺たちはずっと仲間だから!」 っていってくれるんです。

これだけだと伝わりにくいかもしれませんが、自分にとって見えないということはハンデではないんです。あくまで特徴のひとつでしかなくて、自分の中ではスタイルの延長線上だと思っているんです。

だから仲間は、見えないなら見えないなりに同じスケーターとして努力しろよって感じなんですよ。彼らは自分の目の見えてた頃も知っているので、周囲の方々とは違って、目が見えないからと特別扱いしないところにもグッとキテしまうんですよね。

ーすごく良い話ですね。

だからこそ自分も頑張れているんですよ。「お前をあえて目の悪いスケーターだとは思わないで、普通のスケーター、皆同じスケーターだと思って接する」っていってくれた事には心底感動しました。

いい仲間に恵まれたなって思っています。だから自分も仲間のために何かできることで返していきたいと思っているんです。

今は埼玉にいても福島への愛着はすごくあるし、自分の地元にもこんな凄い人たちががいるんだっていうことを紹介していきたいとも思ってますね。それがこうやってメディアに取り上げられるようになった今の自分ができる、せめてもの仲間への恩返しかなと思っています。

 

メンタルの保ち方

ブラインドスケーター・大内龍成

ーところで病気の現状はいかがですか?

視野率はずっと5%くらいでステイしていて、ほとんど見えないことに変わりはありません。でも最近はそのことを考えるのをやめるようにしているんです。どうせ病気は絶対に進みますし、止める手立てはないので、ある意味呪いだと思っているところもありますね。

それとコレ極論なんですけど、この状況を逆手にとって、俺がもし見えていたら他の人達とは釣り合っていなかったんだ。神様はそのバランスをとるためにあえて俺に足かせを用意したんだと、ハンデあってこそ初めて五分なんだなって、モチベーションを保つためにものすごくポジティブなことだと捉えるようにしているんですよ。

もし、このことを本気でいっていたのだとしたら反感を買うかもしれないですけど、自分の場合はそれくらいの心意気で周囲に食らいついていってやるというか、そういう気持ちの現れなんです。

逆にそれくらいの気持ちでいないと、メンタルがやられてしまうんですよね。これはそれだけの病気なんです。

【大内龍成】ブラインドスケーター大内龍成が目指すもの〜スケートボーダー取材記Part3はこちら

進学のために首都圏へ引っ越したことで急激に人生が好転し始めた大内さん。今では認知度も上がり、未来へ向けた明るい話も届いている一方で、まだまだ越えなくてはいけない壁もたくさんあると話しています。そこで締めくくりとなるパート3では、未来へ向けた自身の展望と考えについて伺っています。

ライター

吉田 佳央

1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。フォトグラファー兼ジャーナリストとして、ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。