小学1年で判明した進行性の難病「網膜色素変性症」
ーまずはインタビューに際した自己紹介からお願いいたします。
大内龍成。年齢は21歳でスケート歴は7年。あん摩マッサージ指圧師と鍼灸師の資格取得のために福島から埼玉に出てきて、今は学生をしています。
小学校1年生の頃に進行性の目の病気「網膜色素変性症」を申告されて、その後、高校生の頃に急激に症状が進行したことで白杖(視覚障害者が日常生活で使う杖)を使わざるを得なくなってしまいました。
スケートボードは14歳の頃に始めたので、わずか3~4年で強制的にブラインドスケーターとしての活動を余儀なくされてしまったんです。
ーでは大内さんが抱えている進行性の目の病気「網膜色素変性症」がどんなものなのかというところから聞かせていただけますか?
視野がどんどん無くなっていくのが特徴で、実際に自分も今まで見えていたところが、どんどん見えなくなっていきました。その視野の無くなり方も人それぞれで、例えば真ん中だけ視野が残っていて外側からどんどん見えなくなっていく人もいれば、逆に真ん中から視野がどんどん無くなっていく人もいる。
あとは自分のようにランダムに無くなっていく人もいます。例えるなら逆パズルのような感じでしょうか。
ただ視野の喪失が外側で、真ん中が見えるならまだ動けると思うんです。でも自分はそうではないから、病気が進行すると白杖を使わないと歩けなくなってしまいます。今は視力の95%を失ってしまったんですが、例え5%見えていたとしても、まとまって見えているわけではなく、散らばっているので実生活では全く使えません。
言葉で表現するのが難しいんですけど、ビリビリに引き裂かれたカーテンの隙間から外を見る感じといえばわかりやすいでしょうか!? そしてその破れた箇所はどんどん塞がっていき、見えないところが増えて隙間がどんどん小さくなっていくんです。
ー国からも難病指定されていますが、いまだに治療方法はないのでしょうか?
はい。ずっと研究は続けているようですが、進行を抑えることはできても劇的な回復はできないらしいです。しかもそれも認可されていない治療法なので、まだまだ先は長いですね。もし治るんだとしたら、自分は死ぬほどスケートボードがしたいですよ。
一応今もできてますけど、パーク全体を舐め回すようなラインを組んだり、街をクルーズしてストリートで遊んでみたいです。
特別なことは何も求めてなくて、単純に昔やってたことをやりたいんですよね。新しいことを始めるよりも元の生活を取り戻せるだけで十分なんです。
「自分には時間がない」
ースケートボードに出会ったのは病気の宣告からかなり経った頃でしたよね。始めるにあたって病気の影響はなかったのでしょうか?
もちろん気になりましたよ。この病気は紫外線を浴びることで進行してしまうので、両親はそれが原因で最初は反対していましたし、自分も不安はありました。でもそれ以上に「やるなら今しかない! 」って思ったんです。
スケートボードを始めた14歳当時ってまだ目は見えていたんですけど、どんどん進行していて、もう免許取得は難しいだろうと言われていたんです。だからこれ以上進行してから始めるのはリスクがより大きくなるので、悩む時間すらもったいないと思って始めました。
「俺には時間がないんだ!」って当時はがむしゃらに練習しました。他の人が2~3日かけて行う練習量を自分は1日でこなさなきゃいけない。そうしないと絶対に這い上がれない。「やるなら本気でやってやる! 目の見えるうちに行けるところまでいってみたい!! 」って本気で思ってたんです。だから極力紫外線を浴びないように帽子とサングラスをつけながら必死で滑ってました。
ー病気のことがあったのにのめり込んでいったスケートボードですが、どんな出会いだったんですか? 何かを始めるにしても紫外線の影響を受けない屋内競技などの選択肢はなかったのでしょうか。
特別なことは何もないですよ。始めたきっかけは、たまたま友達が持っていて、乗ってみろっていうから借りて滑ったら、その日のうちにプッシュができるようになったんです。それがものすごく気持ちよくて楽しくて、「スケボーっていいな! これなら本気で始めよう!! 」という感じですかね。
始めるきっかけの段階ですでに乗っていたので、その友達には本当に感謝してます。なので他の競技とかスポーツの選択肢はなかったのかという以前に、そもそも考えたことすらなかったんですよ。
ーただご両親はそれでも反対していたんですよね!?
はい。紫外線を浴びて病気が進行してしまうのを懸念して、スケートボードは買ってくれませんでした。でも自分はやりたくて仕方なかったんです。だから当時は友達のものを借りて、シェアしながら滑りつつ、仲間の使ってないパーツを譲ってもらって、内緒で自分のコンプリート(滑走できる状態に組み上がったボード)を組んでたんですよ。
ある時、両親にそれがバレてしまったんです。その時に「そこまでしたいんだったらわかった。でも目のことはわかってるんだろ!?」と強く言われたんですけど、自分は「もちろんわかってる。でもどうしてもやりたいんだ!!」と主張しました。そんなことでスケートボードはやめられません。そこでようやく買ってもらえたんです。
だから買ってもらったその日はすぐ友達に連絡して、めちゃくちゃ乗り回しましたね。さらにどっぷりハマっていったんです。
girlっていうブランドのデッキ(ボード)だったんですけど、女性用トイレのマークのようなブランドロゴなので、それを見せて、これ俺の彼女なんだぜと言ってたくらい大切にしていました(笑)。
それくらい当時からスケートボードがとにかく好きだったんですよ。
自暴自棄になった高校時代とダン・マンシーナ
ーその後高校生で病気が急に悪化したことで以前のようにスケートボードができなくなっただけでなく、目が見える人を演じていたりと自暴自棄になっていた頃がもあったそうですが、その頃のお話を聞かせていただけますか?
当時は目が急激に見えなくなっていって、生活にも支障をきたし始めていたんです。それまでは進行していたとはいえ普通に生活はできていたから、やっぱり盲目になっていく自分を認めたくないという気持ちが強くて、「白杖なんて絶対に持ちたくない!」 と思ってたんです。
だから友達と外食をするにしても、事前に行くお店を決めて、メニューまで調べておいて平然を装うっていう形で見える人を演じていたんです。
でも高校2年生くらいからは本当に何も見えなくなってきて、見える人を演じる以前に「この先どうしよう!?」 という不安に襲われるようになりました。今まで本気でスケボーやってきたのに、「もう一生できないのか!?」 って。
そこからだんだんと自暴自棄になっていったんです。この頃はスケートボードをやるにしても月に1回、のらりくらり適当に乗るくらいで、かつての「俺は上手くなるんだ!」っていうマインドはどこにもなかったですね。
ーそこからの復活のきっかけになったのが、同じ盲目スケーターとして活躍するダン・マンシーナだったんですよね!?
はい。ちょうどその頃にダン・マンシーナの映像がネット上で話題になって、どんどん有名になっていったんです。仲間にすすめられて見た時に自分はハッとしました。
「俺はなんてことで悩んでたんだ…。盲目でもこうして滑ってる人がいるじゃないか、それなら俺にもできるはずだ。やり直そう! もう迷わない!!」 と心に誓ったんです。
プロスケーターにはなれなくても、彼のように人に影響を与えることはできる、そんなスケーターになろうって思ったんです。自分が息を吹き返すことができたのは間違いなく彼のおかげなので、本当に感謝していますね。
白杖を使ったライディングのシミュレーション
ーただそうは言っても、目がほとんど見えない状況でのスケートボードは苦労も多かったのではないですか?
本当にその通りで、現実はどんどんトリックを失っていきました。最初は本当にキツイなんてものじゃなかったですよ。しかもその間も病気はどんどん進行していくんです。だから、この先さらに目が悪くなる将来の自分を想定して、誰もいない早朝の公園に白杖を持って行って、白杖を使ったスケートボードのシミュレーションをしていたんです。
実際にそこから半年~1年経った頃には、もう白杖がないと生活できない状態にまで進行したので、結果的にはこの頃の練習が今のスケートボードをする感覚を養う上で、とても重要な期間になりました。
ーそうしてブラインドスケーターとしての本格的なキャリアが始まったんですね。
いざこうなってみて思うことなんですけど、自分の中ではスケートボードがあったからこそ、白杖を持つことを気持ちの上で承諾できたんです。
ただ出来ていたトリックのほとんどを失ってしまいましたし、そこは今でも本当に悔しいです。
まだ昔の自分が捨てきれなくて、あの頃の俺だったらこれくらい簡単にできたのになとか、なんで今はこんなこともできないんだろうって、過去の自分と今の自分を重ねてしまって、苛立ちを感じることもあります。
でもその悔しさや苛立ちがあるからこそ、そこをバネに今こうして努力できてるんじゃないかなって思うんですよね。昔出来ていたトリックなら練習すれば身体が思い出すはずだ、あの頃の自分に戻りたい、出来てたトリックを復活させてやる! という気持ちがモチベーションになっているんです。
【大内龍成】ブラインドスケーター大内龍成が目指すもの〜スケートボーダー取材記Part2
ライター
吉田 佳央
1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。フォトグラファー兼ジャーナリストとして、ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。