よりサーフィンに集中するために
【岩見天獅】2024年パリオリンピックとCT入りを狙う次世代サーファーインタビューvol.1はこちら
―今年から高校に進学しました。今のサーフィンライフはどうですか?
千葉市にある通信制の高校なので、登校するのは週に1回です。登校日は9時半から授業が始まって16時20分に終わるので、その日は海には入れないですけれど、それ以外の日はみっちりサーフィンができます。
―その通信高校を選んだのは純粋にサーフィンのためですか?
思いっきりサーフィンできる環境が作れることと、人脈という意味合いがありました。いろんなところから面白い人が集まってくると思ったので。
フィギュアスケートの紀平梨花さんも通っていた高校で、特待生として入学することができました。学校も、大会や練習に最適な波が割れているときは登校しなくても大丈夫というスタンスです。
―小学校時代や中学校時代も、学校側にはサーフィンに対する理解はあったんじゃないでしょうか?
そうですね。小学校のとき皆勤賞を取ったんですが、校長先生が休校制度を作ってくれて、大会で休むときなどはその制度を利用させてもらいました。その代わりに宿題が出て、休みをカバーすることが前提でした。
中学校のときは、海外の試合の場合は前後3日間、国内の場合は前後2日間休めるようにしてくれました。小学校から引き継ぎをしてくれて、サーフィンや試合に集中できるような環境でした。
―そうした学校側の理解はサーフィンが盛んな土地柄が大きかったのでしょうか?
間違いなくそうだと思います。ただ、それまで自分のような前例はなくて、自分たちがそうしたケースを作っていった感じです。
(父:岩見公平さん) その代わり、宿題もけっこう多かったですよ。でも、宿題は絶対にやれ、義理は欠くな、と言い続けていました。
だから、泣きながら試合の合間に宿題をやっていたこともありました(笑)。アメリカでの試合のときも、2週間くらいビーチにいなきゃいけない中、パラソルの下で宿題をしていました。
CT入りへの道のり
―目標としているサーファーを教えてください。
ジョンジョン・フローレンスです。小学4年のときからずっと彼が目標です。誰が見ても「やっぱり違うな」と思わせるサーフィンをしていますから。サーフィンスタイルがかっこいいですよね。
中学のときにお気に入りのサーファーがジュリアン・ウィルソンになったこともあったんですけれど、それからイーサン・ユーイングに変わり、またジョンジョンに戻ってきたって感じです(笑)。
ジョンジョンは一時期、ケガが重なって試合に出ていなかったのですが、最近カムバックしたのを見たら「やっぱりかっこいい」と改めて思いました。
―小さい頃から抱いているゴールはやはりCT入りですか?
そうですね。小学6年くらいの頃から、CT入りするにはどうしたらいいのか、具体的に考えるようになりました。
まずはワールドジュニアの試合でファイナルかセミファイナルまで勝ち上がる。そうすれば最高グレードのQS(クオリファイイングシリーズ:CTの下部ツアー)10,000の試合に出られますから。そこで成績を残して18歳でCT入りというのがプランです。あと2年ちょっとですね。
―昔とは試合のフォーマットに少し変更がありましたよね。CTに入るにはQSのリージョナルツアーに出て、その上位の選手が戦うCS(チャレンジャーシリーズ)で好成績を残すことが必要になりました。そんな中で、直近のゴールとして見据えていることはなんでしょうか?
とりあえずワールドジュニアに出場することと、なんとかしてQSのリージョナルツアーで4位以内に入ることです。今年はそれを達成したい。そうすれば、より高いレベルで経験を積むことができるので。
自らの強みと課題
―高いレベルで戦う上で、通用すると感じているところと、課題と思うところはどこでしょうか?
自分のサーフィンで足りないところは、気持ちに左右されやすいところだと思っています。あと、ライディングのラインが細いところ。パワーが足りない。ただ、スピードについては他の人よりも出ているのかな。それに加えて、ライディングにフローがあって、滑らかなのが特徴だと思います。
―でも、側から見ていても、明らかに体が大きくなっていますよね。身長も175cmを超えてきたようですし。お父さんも体が大きい。その点は自分でも有利だと感じていますか?
そうですね。いま体重が70kgあるんですが、日本人で175cmを超えてこのサイズの体というのは有利だと思いますが、あともう少し大きくなればいいですね。175cmくらいのCT選手もいっぱいいますし。
―身長はまだ伸びているんですか?
はい、少しずつ伸びています。成長痛は最近あまり出なくなりましたけど、出たり出なかったりって感じです。
プロ、そして世界へとステップアップ
―13歳でJPSA公認プロに合格。惜しくも数ヶ月の差で最年少記録とはならなかったんですが、13歳という年齢は最年少タイ記録。このことについてはどう捉えていますか?
悔しかったですね、狙っていたので。その時点までは最年少記録を一つの目標としていたこともありましたし。もちろんプロになれたのは嬉しかったですけど。
―国内プロツアーであるJPSAを回ろうという気持ちは、プロになったあともありましたか?
日本にいるなら出たいという気持ちはありました。でも、そのときの優先順位としては、NSSA(全米アマチュアサーフィン連盟)で結果を残すことの方が大事だったんです。とにかくいろんな試合に出て、経験を積みたかった。
―そうやって小さな頃から積極的に海外へ遠征してきた印象ですが、それはサーフィンのスキルアップにはどんな影響があったと感じていますか?
まず、同年代でこんなにサーフィンの上手いやつがこんなに多くいるんだって感じたのが一番でした。常に勝つか負けるかわからないくらい実力が近かったし、海外の選手は小さい頃から試合をやっているから試合運びも上手かった。日本の同年代のサーファーよりも明らかに試合慣れしていました。
そういう子たちとやることでもっと高いレベルで戦えるようになるだろうと思いました。海外の子どもたちは、小さくても試合中にマークしてきたり、コーチがついていたりして、全然違いました。
―それを埋めるにはどうしたらいいと考えたんでしょうか?
とにかくそういうレベルの人たちといっぱい試合をすること。それと、考えることが大事だと学びました。
―とはいえ、プロになり、高校生になった今でもコーチをつけていませんよね?
アメリカで試合をする場合に限って、コーチをつけるようにしました。アメリカ在住の日本人コーチがいるので、彼の家にステイしながら試合に臨んでいたんです。その日本人コーチが住んでいるエリアから遠い場所で練習する場合は、他の家にステイさせてもらっていました。
日本ではコーチをつけてないで、父と一緒にやっています。日本の場合は、今のところあまりしっくりくるコーチがいないのですが、父は一緒にいろいろと研究してくれるので、2人でやれるなっていう感覚はあります。試合のときも2人でいろいろプランを考えて、戦うための引き出しをどう増やしていくか話し合っています。
父はプロのコーチじゃないので、逆に自分でも考えなきゃいけないところはあります。でも、負けて「あれがダメだった」みたいに言われることや、怒られることはまったくなかった。それよりも「こういう戦術もあったね」みたいな話になることが多く、負けたときほどネタが増えるという感じです。
―同じ年代には、かなりレベルの高いサーファーがひしめいている印象ですが、この人だけには負けたくないというサーファーはいますか?
アメリカだと同じ年齢のルーカス・オーストンや、デーン・マットソン、コール・マカフレイですね。小さい頃から一緒に戦っていたので、この人たちには負けたくないっていう思いはあります。日本だと年下には負けたくないです。
ライター
中野 晋
サーフィン専門誌にライター・編集者として20年以上携わり、編集長やディレクターも歴任。現在は株式会社Agent Blueを立ち上げ、ライティング・編集業の他、翻訳業、製造業、アスリートマネージング業など幅広く活動を展開する。サーフィン歴は30年。