直前に控えた東京2020オリンピック。しかし、水面下では2024年に開催されるパリオリンピックへの戦いもすでに始まっています。今回は、ホープと称される岩見天獅に単独インタビューを敢行。サーフィンを始めたいきさつや、環境作りなどを伺いました。

父の影響で始めたサーフィン

岩見天獅 サーフィン

―生年月日や出身地など、まずは自己紹介をお願いします。

2005年6月19日に東京の板橋区生まれです。小学校4年生のときに千葉の海沿いに引っ越してきました。

―サーフィンを始めたきっかけはなんだったんでしょうか?

父がもともとサーフィンをやっていたんです。海に行く機会が多くて、自分もかっこいいなと思って始めました。5歳のときです。

周りにはまったくサーフィンをやっている人がいなかったんですけれど、父が通っていたサーフショップにチーム員がいっぱいいたので、寂しさはなくて、逆に楽しかったですね。

―小学校4年生のときに移住したということですが、移住を決断した経緯は?

海から離れたところに住んでいたので、サーフィンを始めてからずっと、毎日海に入れないもどかしさがあったんです。

小学校2年くらいの頃から目標に掲げているワールドサーフリーグ(WSL)のチャンピオンシップツアー(CT)に入るためには、毎日サーフィンできる環境じゃないと絶対に無理だと感じました。

それなら早めに海のそばに住んだほうがいいと思って、ずっと引っ越そうっていい続けていました(笑)。

 

反対された海沿いへの移住

―サーフィンの場合、海のそばに住んだとしても、本当に海の目の前に家がない限り、子供は1人で海には行けないですよね。送り迎えが絶対に必要になってきます。それがサーフィンというスポーツの難しさでもあるわけですが。

(父:岩見公平さん) 僕はCTに入って欲しいとは、最初はまったく思っていなかったんです。移住はダメだ、ふざけるなといっていました。

―お父さんはなぜ移住には反対だったんでしょうか?

(天獅) たぶん寂しいからじゃないですか(笑)?

(父) いや、僕自身、試合に興味がなかったからなんです。かろうじてCTがどういうものかわかるくらい。

あと、天獅が5歳くらいのときに埼玉に家を購入していて、自分でやっている会社の事務所もそこに移していたので、移住は無理だと。それ以前に、天獅がサーフィンをやっていること自体、面倒に感じていた部分もあったんですよ。

―現在のご両親の協力的な様子からすると、まったく想像がつきませんね。

(父) 小学校3年くらいのときに、本人が試合に出たいって言い始めたんです。周りの人たちにも本人が自ら相談していて。

相談を受けた周りの人たちが「運転だけしてくれれば、他はこっちでなんとかするから、かわいそうだし、試合に出してあげて欲しい」って言ってくれたんです。

そのときには千葉の海沿いに別荘を持っていたんですが、そこまで言うなら、1年だけの限定で試合に出ることに付き合おうと決めました。

「出たい大会を自分で選べ」って言って。自分でインターネットで調べてました。

最初からのめり込んだサーフィン

岩見天獅 サーフィン

―最初からサーフィンにはまったんですか?

(天獅)はい。めちゃくちゃ楽しくて。一番初めのサーフィンのことはほとんど覚えていないんですけれど、始めて間もないころ、茨城の海に入ったときのことはすごく印象にあります。

最初、父の肩に掴まりながらサーフボードの上に立った状態で、押してもらって波に乗ったんです。スポンジ製のサーフボードで、当時としては超デカい波が割れる海に入ったのも覚えてますね(笑)。それも確か5歳のときです。

(父) 面倒だったから、僕自身が入りたいところの海に行って、無理矢理沖まで連れて行って、スポンジボードでやらせていました(笑)。アタマくらいのサイズはあったんじゃないかな。

(天獅) めちゃくちゃ怖かったですよ(笑)。

―それでサーフィンを嫌にはならなかったんですね。

(天獅) 大丈夫でしたね。最初から子ども扱いされていなかったんだと思います。

(父) 「俺たちはここで入るけど、天獅がサーフィンしたいんだったらやればいい」っていうスタンスでした。でも、波が大きいときには「やめておけばいいんじゃない?」っ言っていました。

 

夢のための大きな決断

―移住する前はどんなペースで海に入っていたんですか?

(天獅) 基本的には週2日です。夏だけは、金曜日に学校の授業が終わったらすぐに海に向かって、30分とか1時間でもいいから海に入っていましたね。

―オリンピックのサーフィン会場になっている釣ヶ崎海岸だと、今は多くの子どもたちが親のサポートを受けて毎日、学校終わりにサーフィンしていますよね。

(天獅) 相当恵まれていると思います。今のもっと若い子たちは両親にビデオを撮ってもらっているじゃないですか。自分の場合は、最初ビデオも撮ってもらえませんでしたから。

(父) 面倒だったんです(笑)。でも、あまりにも何度も撮ってくれって訴えられたので、「じゃあ撮ってやるよ」って言って撮影したのはいいんですが、声しか入っていなかったり、テイクオフした瞬間しか映っていなかったりしていました(笑)。

これじゃ話にならないって思ったらしく、母親に土下座して撮影を頼んでいましたね。

(天獅) 母親は最初からサーフィンには反対だったんです。「なんでサーフィンなんかやるの?」みたいな。母親は勉強を頑張って欲しいと思っていましたから。

―今は撮影にも試合にもとても協力的に見えますが、その両親の反対はいつくらいに変わったんですか?

(天獅) ちょうど移住するタイミングです。「千葉に行くからにはサポートする」という感じでした。

(父) 1年はサポートするって決めて、覚悟しましたから。母親も同じでした。移住するのも、天獅が勝手に学校に言っちゃっていたんですよ。

(天獅) 小学校3年の二学期の終業式に発表した校内作文で、そのとき目指していた最年少プロになるために、海沿いに引っ越して、毎日海に入るって書いたんです。

(父) 学校から電話があって、「夢のために引っ越すって言っていますが…」と言われて(笑)。そのときは完全に移住はダメだって言ってたんですけれど、サーフショップの人たちも「天獅が引っ越してくるんだって?」って盛り上がっていて。

じゃあ仕方ないか、と。その代わり、やる気が見られないようだったら戻ると約束させました。母親は朝、勉強しないと絶対に夕方にサーフィンさせないっていうスタンスでもありましたし。

だから、朝にサーフィンすることはほとんどなかったですね。朝、波がいいことがわかっていて、どうしてもサーフィンしたいときは、前日の夜のうちに全部終わらせることが条件。

(天獅) 大変でしたね。ただ、朝、海に入れない分、サーフィンに対する気持ちを夕方の海にぶつけるようにしていました。他の人は朝、海に入っているから、逆に学校で眠くなったりしていましたけど。

教育熱心な家庭に育った岩見天獅。お父さんの趣味から始まったサーフィンでしたが、天獅のサーフィンに対する情熱は止められなかったようです。このインタビューの続きはvol.2で展開予定です。13歳でプロに転向したいきさつなどをお届けしていきます。

ライター

中野 晋

サーフィン専門誌にライター・編集者として20年以上携わり、編集長やディレクターも歴任。現在は株式会社Agent Blueを立ち上げ、ライティング・編集業の他、翻訳業、製造業、アスリートマネージング業など幅広く活動を展開する。サーフィン歴は30年。