多様化したスケートボードシーン
ーまずは最初に、取材に際しまして自己紹介からお願いできますか。
初めまして、荒畑潤一といいます。1977年1月19日生まれで43歳になります。スケート歴は32年なのでもうベテランの領域ですかね。
今の活動としてはスケートボードの現役をできる限り続けながら、日本の未来のスケーターの育成をしています。他にもChimera A-SIDEというアーバンスポーツイベントのディレクターをしたり、コンテストのジャッジなんかもたまにやりますね。
今までプロスケーターとしての長年活動してきた経歴を活かして、スケートボードの本質を大事にしながら、スケートボードを世に広めていくために様々なことをフリーランスとして行っています。
ー現在、スケートボードといえば一般的にはオリンピック競技に採用された新たな競技という認識かと思いますが、荒畑さんは今のスケートボードシーンをどのように感じていらっしゃいますか?
一言で言うなら”多様化”ですかね。昔は不良上がりのような怖いけどカッコイイ先輩に憧れて始めたとか、バンドマンが滑ってたりとか、ルーツを持つカルチャー的要素が強かったんですが、今はオリンピック競技にも採用されたことで愛好者の方の中にはスポーツ的な路線の人が増えたなという印象です。
そしてメディアに有力選手が取り上げられてるおかげなのか、スポーツ目線で見る一般の方々もかなり増えました。そういう世の中になったからこそ、今の自分みたいにスクールが事業として成り立つようになったとも思ってます。
ただ、今でもスポーツ路線とは一線を画した個性あふれる人はいっぱいいます。コンテストにはほとんど出ずに、オリジナリティある滑りを映像に収めて、アメリカのThrasher(※1)からビデオパートを公開して話題を呼んだりしていますから。そう考えるとやっぱり多様化って言葉が一番しっくりきますね。※1 世界最大手のスケートボード専門誌を発行するメディア
オーリーをする先輩の姿に憧れてスケートの虜に
ー昔はカルチャー要素が強かったとおっしゃっていましたが、荒畑さんがスケートボードに出会った当時のシーンはどんな感じだったんでしょうか?
自分は1988年にスケートを始めました。時代でいうと光GENJIがすごく流行っていた頃です。その影響もあって、じつは最初はローラースケートをやってたんですよ。それこそかなり夢中になっていたんですが、ある日近所の公園に隣の市の高校生のお兄さんたちが突然やってきて、そこで初めてオーリーをする姿を見たんです。
その時の衝撃は今でも覚えていて「カッコイイ! ヤバい!! 」という感じで、自分はそのお兄さんたちを見るのが楽しみになっていったんです。そうして気づいた頃には弟のスケボーを借りてはじめていましたね。
それで小学校5年生のクリスマスにスポーツ用品店でオモチャのようなスケボーを買ってもらって、チクタクから必死にやってました。
今の子たちはスケートボードの体験会があったからとか、子どもに何かスポーツをやらせたくてとか、習い事にスケートボードスクールがあったから、というのが多いですけど、自分が子どもの頃はそういったことは全くなかったですね。
90年代から多くの雑誌やビデオで活躍
ーその後は国内のトッププロとして活躍されてきましたが、荒畑さんがバリバリの現役だった頃はスケートボードにとってどんな時代だったんでしょうか?
自分が熱心に出てたというのもありますけど、AJSAとかコンテストが盛んだった記憶がありますね。それで、自分も18歳で全日本のチャンピオンになることができて、そこからは本場であるアメリカのシーンをより強く意識するようになっていきました。
もちろん小さな頃からアメリカのシーンは見ていましたけど、日本一になったことで、より現実に捉えるようになっていったんです。
それと同時に世間的にもDragon AshとかHi-STANDARDのようなカルチャーミュージックが、ヒットチャートの上位に食い込むくらい、ストリートカルチャーがものすごく盛り上がっていた時代でもありましたね。
だからスケートボードもそう言ったファッションや音楽とともに世間から注目を浴びていました。雑誌もかなりの数があったし、どこも決まって謳い文句のようにミックスカルチャーと言って、スケーターが一般紙の表紙になることも多かった気がします。
なので業界もかなり好調に推移していましたし、広告にもスケーターが多く起用されてました。もちろん当時は今のようにSNSはなく雑誌とビデオがメインだったので、そういうところにライダーたちがいっぱい出てました。
それこそ自分が出るときもスノーボーダーやHIP-HOPアーティスト、モデルとかいろんな人との関わりがあったから、ボーダーレスな時代だったなと思います。有名なところで言うと、安室奈美恵さんの『ALARM』という曲のMVとか、マクドナルドとかユニクロのCMにも出させてもらいました。
親子で楽しめるものに発展
ーそこから20年余りの時を経てスケートボードはオリンピック競技になるまでに成長しました。その間どのような進化を遂げて今のシーンが構築されていったのでしょうか?
スケートボードは90年台後半のブームの延長線上で2002、2003年くらいまでは盛り上がっていたと思いますけど、その後は氷河期というか、自分の中では明るい時代ではなかったと記憶しています。もちろん自分はそんなことは関係なく、ただ好きでスケートボードは続けていましたが、世間的にはそんなに盛り上がってなかったように感じていました。
でもそんな時代にこそ、未来に向けた明るい話題は生まれるもので、ちょうど瀬尻稜というスケートボーダーが頭角を現し始めたんです。彼は親御さんの教育の一環で幼少期からスケートボードに勤しんできた最初の世代で、今では当たり前になった二世代化の走りなんですよ。
もちろんそこにはスケートパークが増えたことや、自分のように教える人が増えてスクール事業が徐々に確立するようになってきたことも影響しています。
そういった競技の成熟が全世界的に起こっていたことが、オリンピック競技化に繋がった部分はあると思います。実際に海外でも、スケートボードをしたことがある人なら一度は名前を聞いたことがあるであろう”トニー・ホーク”と”ライリー・ホーク”という親子二世代プロもいますから。
そういったレジェンドの方々がオリンピック競技にしようと活動していたのも聞いていたので、彼らが時代を先読みして活動してくれた功績は大きいんじゃないかと思います。
自分の経験を未来に還元したい
ーでは荒畑さんが長年スケートボード携わってきて、ものの見方とか活動やライフスタイルの変化があれば教えていただけますか。
昔は「俺が俺が」というか、プロスケーターには多いとは思いますけど、トンがってた部分はありましたね。でも今は自分をしっかりと出しつつも、皆とうまく共存していければなと思っています。
自分のポジションを明確にするというか、若手は若手、中堅は中堅、ベテランはベテランに適した立ち位置があると思っていて。アメリカはそういうところもしっかりと確立してるから、確固たるシーンが築けているし、日本もそこを目標に進んでいかなきゃいけないなと感じてます。
もちろん今でも攻めきゃいけない時はリスク覚悟の滑りもするときもありますけど、身体が若い頃とは同じようにいかないのは当然なので、それよりも自分の長年経験してきたことを未来のスケートシーンに還元していきたいなって思ってます。
それが育成ですと言ったらきれいな言葉になってしまいますけど、自分が培ってきたものを還元できる方法のひとつなのは間違いないので、そこは今後も追求し続けていきたいと思っています。
Profile:荒畑 潤一
1977年1月19日生まれ。東京都小平市出身。
スポンサー:SHOWGEKI SKATEBOARDS、Ninja Bearings、Diamond Supply Co.、PRAY Ⅳ GRIP、Oakley、New Era、ESCAPO TOKYO、Arktz。
145(イシコ)の愛称で知られ、長きに渡り日本のスケートボードシーンを牽引してきた、1977年生まれの黄金世代を代表する人物。スケートメディアはもちろんのこと、端正なマスクでファッション誌のモデルなどで活躍するほか、国内の技術レベルやスケートボード自体の地位を高めたパイオニアのひとり。
現役時代はスイッチや回しを駆使したテクニカルトリックを武器に18歳で全日本チャンピオンを獲得。ワールドワイドな活躍をみせてきたライダーで、40歳を越えても熟練の魅せるライディングは健在。現在は自身のキャリアを活かした個人スクールを中心に、スケートボードの魅力を幅広く一般に伝える活動をしている。
【荒畑潤一】プロスケーターを経て育成のプロフェッショナルへ〜取材録Part1
【荒畑潤一】プロスケーターを経て育成のプロフェッショナルへ〜取材録Part2
【荒畑潤一】プロスケーターを経て育成のプロフェッショナルへ〜取材録Part3
ライター
吉田 佳央
1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。フォトグラファー兼ジャーナリストとして、ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。