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開催まで1年を切ったパリ五輪。メダル獲得の期待が膨らむ種目のひとつにスケートボードがあることは、東京五輪の結果を見れば明らかでしょう。今回は、東京五輪後にメダル候補に躍り出た、女子パーク期待の星、草木ひなの選手の素顔に迫ります。

AXISの”鬼姫”

草木ひなの スケートボード

ーまずは自己紹介からお願いします。

草木ひなのです。スケートボード歴7年の15歳です。主な戦歴は、全日本選手権2連覇と日本オープン優勝。パリ五輪の予選にあたる世界大会では、4位に2度なっています。

オンラインでは、『Exposure X 2021 INDEPENDENT BEST VIDEO PART TRANSITION(※)』という国際大会の『14&UNDERクラス』で優勝しています。

ホームは、茨城県つくば市にある『AXIS SKATEBOARD PARK』です。皆からは鬼姫と呼ばれていますね。

※参考動画

ー鬼姫というニックネームの由来を教えていただけますか?

元々はもののけ姫と呼ばれていたんです。私のスケートスタイルが、猪突猛進型で猪みたいというのが理由なんです。

もののけ姫に出てくる乙事主(おっことぬし)とか、巨大な猪神たちって野生じゃないですか!人知を超えたパワーがあるというか。私は当時から、それくらいスケボーで激しい突っ込み方をしていたんですよね(笑)。

ーそこからどうやって鬼姫に変わっていったのですか?

ホームのAXISは、スクールを通じてスキルを磨きましょうというような、今っぽい感じではないんですよ。いい意味で昔ながらのカルチャー色が残る、キャラの濃いヘッシュ(※)な大人たちばかりの場所だったからですかね(笑)。

そんな環境でうまくなってきたら、「こいつレベルアップしたぞ。もう鬼姫じゃね?」ってローカルの人がいい出して、それが定着しちゃったんです。物事の凄さを表現するときに、友達どうしで「鬼何々だね!」みたいな会話になると思うんですけど、そんな流れですね。

鬼と姫って対極のイメージですけど、それも自分らしいというか、しっくりきているなと思っています。

※あえて服装を小汚くし、ラフなスケートを好み、コンクリートのトランジションを攻めるスケーターに多いスタイル。トランジションとは、湾曲した滑走面のあるセクションの総称。

 

お母さんだけズルい!

草木ひなの スケートボード

ースケートボードをはじめた時期ときっかけを教えてください。

小学校2年生の11月ですね。お母さんが遊びでやっていたんですけど、「お母さんだけズルい!」っていう感じでした(笑)。

私、小さい頃からお母さんへの対抗意識が強くて、「なんで一人で遊んでるの? 私もやらなきゃ!」って、ムキになって始めたんですよ。

ーお母さんだけというのは、具体的にどういうことでしょうか?

平日に、私抜きでこっそり公園に滑りに行ってたんですよ。だから、友達とたまに公園に遊びに行ったときは、私が毎回ボードを奪い取っていました。

お母さんが仕方なしに教えてくれるんですけど、私は全然できなくて機嫌を損ねちゃうから、相当面倒だったんじゃないですかね(笑)。だから、毎回理由をつけて、ボードはなかなか買ってくれなかったんです。

ーそれほどまでにスケートボードにのめり込んでしまった理由は?

AXISのライダーの染谷凱くんの滑りを見て、純粋に「カッコいい! もっとやりたい!」と思ったからです。それくらい私には刺激的にうつって、AXISのローカルの人たちや、凱くんと滑るようになりましたね。

いつも年上のおじさんたちにしごかれ、あおられていました(笑)。まあ、それがすごく楽しかったんですけどね。

遠征なんかも、お母さんの友達やおじさんたちと出かけることばかりでした。2019年に鵠沼(くげぬま)で開催された『VANS Park Series』に出たときは、女子とはまだ誰とも話せなかったんです。

 

幼少期から運動神経は抜群

草木ひなの スケートボード

ースケートボード以外の習いごとはやっていましたか?

実はいろいろとやっていたんです。叔父がフットサルの監督なので、サッカースクールに通っていました。ダンスや水泳、アクロバットもやっていましたね。

なかでも、水泳は育成選手の声がかかっていたんです。だから、お母さんは水泳を本格的にやるように勧めてくれて、「スケボーは週末にたまにやるくらいでいいんじゃない?」て感じだったんですけど、私の想いは違っていて。

だから、「その年の最後の大会で自己新記録を出したら、水泳をやめる」という約束をして、きっちり1年間通いました。それで新記録を出せたので、晴れてスケボーだけに打ち込めるようになったんですよね。

ー当時から運動神経は突出していたのですね。ではなぜパークスタイルを選んだのでしょうか?

始めた場所がAXISだったからですかね。ここは施設そのものがパークスタイル向けにつくられているので、特にどっちにしようと意識することもなく、自然な流れでしたね。

ーストリートへの興味は?

それが最近好きなんですよね。だってカッコいいですよね!なぜと言われると、「なんだろう!?」という感じなんですけど。いいなと思い始めてから、ちょっとずつやるようになりました。

パリオリンピックが終わったら、もっとやりたいなと思っています。

 

コンテスト派それとも撮影派

草木ひなの スケートボード
選手同士で成功の喜びを互いにわかち合う。スケートボードコンテストの大きな魅力だ。

ー何歳頃からコンテストに出るようになりましたか?

初めて出たのは小学校3年生です。ローカルパークの大会だったので、お祭り感覚で出ていましたね。

初めて優勝したのは、コロナ禍だった2021年のJSF(Japan Skateboarding Federation)のオンライン大会です。オンラインだと結果のメールは来ないんです。アップされた動画を見ない限り、順位がわからないので、「え、優勝? 本当に!?」という気持ちでした。優勝の実感が全然わかなかったですね。

ー昔からビデオを撮ってもらうのがあたり前の環境にいたら、余計にそう思いますよね。コンテストよりも撮影のほうが好きということは?

どっちのほうが好きかとかは決められないですね。たしかに、映像を撮るのは気合いが入るし好きなんですけど、やっぱりコンテストは皆に会えるし。ハイタッチとかをして喜びをわかち合えて、コミュニケーションがとれるので。

ビデオパートの撮影しかしていなかったら、ここまで多くの人と出会えないですし、友達にもなれなかったと思います。多くの人とじかに触れ合う喜びは、私のスケボーには欠かせないんです。両方いい感じにこなしていくのが理想ですね。

ー技術を上達させるコツを教えてください。

楽しくやることが一番だと思います。

私の場合は、ローカルの人に動画を見せてもらって、「これやってみて!」とリクエストされて、あおられながらやっていたんです。先ほどもお話したように、それがすごく楽しくて。実は、そうやって覚えたトリックもたくさんあるんですよ。

ちなみに、ローカルの人たちには、今でもめちゃくちゃあおられてますね(笑)。

 

日本一になってもオリンピックは目指していなかった!?

草木ひなの スケートボード
地元の茨城で開催された、2021年の全日本選手権で初優勝。草木選手の名前が全国に知れ渡った。

ー草木選手の名前が広まったのは、2021年の全日本選手権での初優勝が大きいかと思います。当時の気持ちを教えてください。

予選すら通ると思っていなかったので、うれしいという気持ちよりも、ビックリした気持ちのほうが強かったですね。学校でも、「すごいね!テレビ出てたじゃん!」と声をかけてもらいましたけど、それくらいでした。

あと、優勝する前と比べても、とくにこれといった気持ちの変化はなかったんですよね。

ー気持ちの変化というのは、オリンピックに対してですか?

はい。ああいう場で優勝すると、皆さんがオリンピックについて質問してくださるんですけど、当時の私にはまったく実感がなくて。行けたらいいなくらいにしか考えられなかったんです。

初めて優勝したオンラインコンテストも、もともと撮影好きで、応募できる映像があったから出ただけです。このときも、地元の茨城の笠間でやるなら出たいっていう気持ちのほうが大きかったんですよね。

だから、ここで優勝しても、翌年4月の日本オープンで優勝しても、まだ漠然としたイメージしかなかったんです。

ーオリンピックをはっきりと意識し始めた時期ときっかけは?

去年の8月に初めてアメリカに行ったときですね。AXIS SKATEPARKの親会社で、スポンサーでもあるMBM park buildersの社長から、「オリンピックに出ないならサポートはしない」と発破をかけられたことで、意識的な部分が大きく変わったんです。

ただ、今思うと、社長は昔から私を見てくれていて、私のことを性格も含めてよくわかってるから、あえてキツイ言葉をかけてくれたのかなと思います。それで私も吹っ切れたので、本当に感謝しています。

ーその後、昨年11月に新潟県村上市で行われた全日本選手権も優勝し、国内の主要大会で3連勝。そこは意識の変化によるものでしょうか?

それもあるかもしれないです。でも、それ以上に一緒に滑ってくれた同年代の仲間や、応援してくれている人たちがいたことのほうが大きかったです。だからこそ頑張れましたし、結果を残せたんだと思っています。

村上に初めて行ったのは去年の8月なんですけど、実はそこから本番まで、ひたすら通い詰めていたんです。それで1か月前には本番に向けたルーティーンは完成していて、残りは精度を高めていくだけでした。

同年代の仲間と共同生活をしていたので、村上の日々は楽しかったんですよね。

去年は、オリンピックを現実的な目標としてとらえるようになった1年でした。物事の見え方やとらえ方、取り組み方が根底から変わった激動の年でしたね。

Profile:草木ひなの(くさきひなの)

2008年4月4日生まれ。ホーム:茨城県つくば市。
スポンサー:Opera Skateboards、Spitfire Wheels、VANS、STANCE、TAIKAN、187 Killer Pads、MBM park builders、Advance Marketing、AXIS boardshop            

ガールズレベルを超越したスピードとハイエアーを武器に世界と戦う、AXISの“鬼姫”。どんなビッグセクションにも果敢に突っ込む猪突猛進型のスタイルは、華麗というより良い意味での荒々しさが際立つ。スケートボードを降りた時に見せる可愛らしい笑顔とのギャップも大きな魅力。

草木ひなの選手の取材記Part2
草木ひなの選手の取材記Part3

オリンピック候補にあがるような選手は、小さな頃から競技一筋の人生を送ってきたと思うことでしょう。しかし、彼女が辿ってきた道は、決してエリートコースではないことがおわかりいただけたかと思います。スケートボード特有の“カルチャー”をいい意味で継承した、ハイブリッドな滑りが、彼女の最大の魅力と言えるかもしれません。パート2では、世界へ進出して感じたことや、普段の生活についてうかがいます。

ライター

吉田 佳央

1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。フォトグラファー兼ジャーナリストとして、ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。