スケートパークを併設した西洋式保育園
ーまずは簡単に施設長の自己紹介からお願いいたします。
ピーター・フレイジャーと申します。カナダのノバスコシア州出身の45歳。現在は愛知県の田原市でリアルタハラというコンクリートのD.I.Y.スケートパークを併設したプリスクールの運営と、FOCUSというスケートショップのオーナーをしています。
ショップの方は施設内に店舗を構える形にはなっていますが、平日でも連絡をもらえれば基本的にいつでも買い物ができるシステムになっています。
ーではスケートボーダーとしてのキャリアを教えていただけますか。
スケート歴はもう37年になります。8歳の時にはじめてフリーマーケットでゲットしたんですが、最初の頃はトリックとかがあるのも知らず、おもちゃのようなデッキでただ滑って遊んでいただけでした。
そこからスケートボードにはトリックがあって、いろいろな事ができるのを知ってどんどんとのめり込んでいったんですが、東カナダの田舎に住んでいたのもあり、ライダーとしての実績は地元の小さなローカルコンテストには出ていたくらいで、スポンサーからのサポートや表立ったコンテスト戦歴は全て日本に来てからのものです。
一応、AJSA全日本アマチュア選手権のマスターズクラスでは3回の優勝と2回の準優勝に輝いています。後は中部地区予選を勝ち抜いて全日本アマチュア選手権に出場した経歴もあります。
長年に渡る教師生活と日本文化への関心
ー日本に来たのはいつ頃ですか? またなぜ来ようと思ったのですか? 来日のきっかけを教えてください。
1999年、大学を卒業した23歳の時ですね。当時は生物学を専攻していて教授のアシスタントをやっていたので、理科の先生になろうかなと思っていたんです。でもなってしまったら自由な時間はないので、その前に一度は世界を見てみたいと思って、最初は1年間だけのつもりで日本に行きました。
日本を選んだ理由は、もともと日本特有の文化に興味があったのと、日本でも英語の先生をやっていれば、カナダに帰っても教員関係の仕事はできるんじゃないかと思ったからです。
でもいざ来てみたら日本が大好きになってしまって、結局その契約も更新に次ぐ更新を重ねて、もう22年もいます。結婚もして今は5人家族になりました。
ー来日当初日本語は喋れましたか? また当時の仕事についても教えてください。
全然喋れなかったです。だから日本に来てからかなり勉強を頑張りました。日本語能力試験の1級も取得済みですし、漢字も日常的なものなら大体読めます。
仕事に関しては、最初は四国でALT(Assistant Language Teacher)や私立高校の先生をやっていました。でも友人からの紹介で愛知県の豊橋市にいい仕事があるよと声をかけてもらったので、そこから引っ越して豊橋エリアでずっとALTをやっていました。
愛娘のために始めたプリスクール
ーそこから今はリアルタハラというスケートパークを併設したプリスクールを開園されましたが、なぜ開校しようと思ったのですか?
直接的なきっかけは知人の紹介で、「私たちが作ったこういう施設があるから、そこならプリスクールで先生の仕事をしながら自分のスケートショップやパークを持てるよ」と勧められたからですね。
なので厳密にいうと、あらかじめある程度形になっていたプリスクールを、その土地から出ていく知人から買い取ったという形になります。
実はスケートパークも買い取った時点で基礎工事は完了していて、ミニランプとそこから続くウェーブ、フラットバンクのセクションはできていたんです。買取りはもちろんスケートパークも込みなので、当時の自分と奥さんの貯金はこれでほぼ使い果たしてしまいました。
ーでもいくら勧められたからとは言え、そこまでプリスクールにこだわるには何か他の理由もあったのではないでしょうか?
はい、もちろんです。一番大きかったのは長女の楓が産まれたことですね。話があった当時、娘はまだ5ヶ月くらいで、どう育てようかすごく悩んでいたんです。
3歳までは家で育てたとしても、3歳になってからは普通の幼稚園にいれるのか!? とかいろいろなことを考えていました。
自分は集団同調性が強い日本の文化や保育を否定しているわけではないですが、生まれ育ちはカナダでなので。
自分の子どもが典型的な幼児向けのアニメキャラが好きで、写真に写る時は皆で揃ってピースしてっていうような、良くも悪くもごくごく一般的な日本らしい幼児になってしまうことで、個性が失われてしまわないかがすごく不安だったんです。
プリスクールの声がかかったのはそんなタイミングの時だったので「これを始めれば自分がやりたいようにできる!」と思い、娘のためなら何がなんでも絶対にやり遂げてやる!! 心に決めました。だから最初は娘のために始めたんです。
おそらく自分がこうしてプリスクールをやっていなければ普通の幼稚園に通ってたと思いますけど、今でもそうなっていたらどういう育ち方をしたんだろうと思います。
自分たちのように、家族が仕事中も含めて四六時中一緒にいるっていう環境はかなり珍しいと思いますけど、自分はやってよかったと思っています。
「スケートボードは人を救う」
ーただいくらスケートパークも買い取ったとは言え、それでも保育にスケートボードを取り入れるという前例は聞いたことがないのですが、なぜそのような取り組みを始めようと思ったのですか?
スケートボードは昔からものすごく人の成長に繋がるものだと考えているからです。その理由のひとつにとあるプロスケーターが残した「Skateboarding Saves」という有名なスローガンがあります。
これは「スケートボードは人を救う」という意味で、同じようにスティーブ・キャバレロ(※1)も「自分はスケートボードをしていなければ、刑務所に入っていたか、もうとっくに死んでいてこの世にいないだろう。自分にとってスケートボードをエネルギーをフォーカスするところで、それによって人生が救われた」と話しています。
それに自分も、引きこもりだった子どもがスケートボードに出会ったことで前向きになって、そこから成長して今はもう立派な社会人として活躍している姿をこの目で確認しました。
「Skateboarding Saves」を実体験できたのは、スケートボード教育に取り組む上で大きな後押しになりました。
※1 1980年代に一世を風靡した伝説のチーム「ボーンズ・ブリゲード」のメンバーであり、オリジナルトリック「キャバレリアル」の開発者としても知られるレジェンドスケーター。日本人とのクオーターで、大の親日家でもある。
ーそういった事実には医学的根拠などもあるのでしょうか?
自分はドクターではないので専門的なことは言えないのですが、アメリカの大手スポーツ専門チャンネルのESPNでは、スケートポードが自閉症を緩和するという番組を放送しています。
なので実は昔からそうように考えている人は多くて、スケートボードが人のためになるということに関して自分は確信を持っていました。スケートボードは本当に難しいですけど、どれだけ失敗しても努力すればした分だけトリックのメイクという形で返ってきます。
そこで努力する精神を学ぶことができますし、そこには子どもが前向きになれる要素が詰まっていると思っています。普段はフラフラしているような小さな子どもが、スケートボードを始めたことですごい集中できるようになったという話も自分は耳にしています。
それにスケートボードは体格も関係なく楽しめますし、お金もそこまでかかるものではありません。性別も人種も関係なく、誰でもできるものです。
努力すればどんな人にも結果が返ってくる”自分超え”が体験できる素晴らしいものです。例えそれが大会で優勝するとかプロになるとか、限られた人しか経験できないことである必要なんてありません。
たったひとつのトリックで良いんです。私はその経験が人生を素晴らしいものにしてくれると思っています。
同時にこれらは自分が長年のスケート歴を通じて感じてきたものでもあるので、私はそういう達成感のようなものを伝えたいと思っていますし、それが小さい子の保育にはとても重要なことだと思っています。
なので、そのようないろいろな話がうまく合わさった結果が、プリスクールの開園なんです。
欧米流の個性を尊重する教育の重要性
ー日本とカナダでは保育環境にどのような違いがありますか?
自分が保育園に入ってたのは’70年代ですし、もう’90年代から日本にいるので今のカナダの幼児教育がどうなっているのかはわからないところもありますが、自分のプリスクールのやり方は、どちらかというとカナダのやり方に近いと思います。
そのひとつに、ウチでは「何をするにも自分で何かを言って、伝えて、行動させる」ということを常に意識して日々を過ごしていますし、重要としているところになります。
これは自分が日本に来て感じた印象なんですが、日本では子どもの環境に親が介入してくる傾向が強いと思いました。でもカナダではそんなことは全くありません。
親は子どもを車から降ろしたらそれで終わり、あとは子どもが全て自分でやるようにしています。
自分のものを持ち運ぶのもそうですし、挨拶や準備・片付けも全てそうです。だからそういう意味ではカナダのやり方に近いと思います。
実際に自分も小さな頃はそうやって育てられて、自分の意見や考えをしっかり伝えるということを学びました。
日本は良くも悪くも集団同調の文化が強い傾向にあります。決してそれを否定しているわけではありませんが、それだけが全てではなく、世界には独立精神を育む、個性を尊重する教育もあるんだってことをわかってもらいたいと思っています。
【選択型プリスクール取材記②】幼児期の英語教育 × スケートボードから見えるもの ~リアルタハラプリスクール~
ライター
吉田 佳央
1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。フォトグラファー兼ジャーナリストとして、ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。