スケートボードは、各種目の特性に応じた専門性の高いレッスンはまだまだ少ないのが実情です。そんな中、いち早くパークスタイルに特化したスクールを開講し、世界一を育てあげるという快挙を達成した笹岡拳道さん。今回の取材では彼の育成術に迫ります。

”笹岡3兄弟”スケートボードファミリー

笹岡拳道(ささおかけんと)

ーまずは簡単に自己紹介からお願いします。

笹岡拳道(ささおかけんと)です。年齢は27歳で、スケートボードは小学校4年生の頃からやっているのでキャリアは20年弱になります。

AJSA(日本スケートボード協会)のプロ資格もありますが、現在はプロスケーターとしてよりも、愛知県あま市のHi-5スケートパークで行っているTRIFORCE SKATEBOARD ACADEMYのスクール、TRIFORCE MANAGEMENTというマネジメント会社の代表が主な活動となっています。

そこで次世代の育成をしながら、自分のところから世界へ羽ばたいていった、弟の笹岡建介岡本碧優のコーチ兼マネージャーを務めています。

ー笹岡さんといえば3兄弟全員がスケートボーダーでスケートファミリーとしても有名ですが、そのような家庭環境が自身のキャリアにどのような影響を与えましたか?

自分の父親(笹岡賢治)は小学校の頃に全日本のジュニアのチャンピオンになっているんですけど、そのおかげで業界のさまざまな先輩方、今でいうレジェンドクラスの方々にはすごく可愛がっていただきました。

みなさん父親のことは知っているので、自分がスケートボードを始めて各地のスケートパークに行くようになると、現地で会った方々から「あの時の賢治か!? その息子か!?」と声をかけられるんです。

それがきっかけでスケートボードを教えてもらえるようになり、いろいろと面倒をみてもらえるようになっていったんです。

おかげでスキルもどんどん上達していきましたし、スポンサーも順調に決まっていきました。この環境でなければ、ここまでトントン拍子でいくことはなかったと思います。

中でも塩谷眞吾さんという大阪の重鎮の方には本当によくしていただきました。でもなぜそういうふうにしてくれたのかを聞くと、みなさん自分の祖父に小さな頃お世話になっていたというんです。

だからこれはその時の恩返しだといって、よくしてくださったんです。とくに高校を卒業して2年間大阪にいたときは、食事から仕事までいろいろとケアしていただきました。

まだ27歳なのに自分がこうしてドンと構えていられるのは、間違いなくその人達のおかげだと思っています。

 

アメリカへの武者修行での出会い

笹岡拳道(ささおかけんと)

ー先ほどプロ資格も有しているとおっしゃっていましたが、プロスケーターとしてのキャリアも教えていただけますか?

自分、じつはプロでの戦歴ってほとんどないんです。と、いうのも2012年のAJSA関西アマチュアサーキットで年間ランキング1位を獲得し、プロ権利を獲得したんですが、当時のプロ戦は自分が主戦場とするパークスタイルのコンテストがなかったんです。

今でこそ2016年のオリンピック競技採用によってJSF(日本スケートボーディング連盟)が競技を管轄してくれるようになりましたが、あの頃はストリートしか出るものがないというのが実情でした。

なので、すぐに3ヶ月間本場のアメリカへ武者修行に行ったんです。この時は2週間分の宿しか決めていなくて、その後は現地で出会った人の家に泊めてもらったりしながら過ごしました。

かなりハードな日々ではあったんですが、そこでの出会いがHi-5スケートパークとの出会いに繋がり、帰国後のTRIFORCE SKATEBOARD ACADEMY開講の足掛かりになったので、自分のキャリアの中では大きな転機になった旅でしたね。

ーそのスクールを始めるきっかけになったアメリカ滞在中の出会いとはどんなものだったのですか?

それは先ほども少しお話した塩谷眞吾さんが、弟の建介(笹岡)、日本人で初めてXGAMESで金メダルを獲得したガールズライダーの貴咲(中村)を連れてアメリカに来たときです。

ちょうど、自分たちが海外をまわっているときに通訳をしてもらっているプロスノーボーダーの高橋玲君を紹介してくれたんです。その玲君が親しくしてもらってる先輩が、Hi-5のオーナーだったんです。

向こうで、「日本に帰ったら知り合いがスケートパークをオープンさせたから顔を出してあげてよ」といわれて、そこから初めてHi-5に足を運ぶことになったんです。

でも、当時は敷地の半分がスケートパーク、半分がラジコンコースという造りでした。でもラジコンの方の収益があまりないから、ちょうど全面スケートパークにしようかと検討していたタイミングだったんです。

ーそこで笹岡さんもパーク設計に携わるようになっていったのですか?

はい。自分はバーチカルを造ってほしいと懇願しました。それでオーナーもお前がそこまでいうならという形で、自分監修の、現在もメインセクションになっているバーチカルが完成したんです。

ただそれと同時に、「ここをお前達の自己満足の練習の場だけで終わらせるのは絶対にダメだ。ここから世界に羽ばたいていけるようなライダーを育て上げるのもお前の仕事だからな」という言葉ももらいました。

当時はちょうど将来についても考えていた頃で、父親とも代理店で働くのかとか、それともショップを開くのかとかいろいろな話をしていました。

そこでコンテストに出るライダーの低年齢化が著しく進んでいたという時代背景もあって、スクールを一事業としてやっていこうという結論になったんです。

やっぱりスケート一家に生まれて、小学校4年生からそればかりやってきた自分にはサラリーマンをしている姿が想像できませんでした。そういった複合的な要素がうまくリンクしてスクールがはじまったんです。

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この記事を書いた人

吉田 佳央

1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。