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東京オリンピック一年延期は各方面に様々な影響を与えましたが、大ケガにより一昨年の五輪予選を棒に振ってしまった藤澤虹々可選手にとっては、まさに起死回生の大チャンス。並々ならぬ意欲を見せる彼女にインタビューを敢行しました。

 

スケートボードで延々と遊んでいた幼少期

藤澤虹々可(スケートボーダー)

ーまずはインタビューに際した自己紹介からお願いいたします。

藤澤虹々可(ふじさわ ななか)です。19歳です。スケート歴は13年で、今はスケートボード中心の生活を送っています。なのでよくプロと言ってくださる方もいますけど、私自身まだまだだと思っているので、これからもっと頑張らないとなって思っています。

コンテストでは2019年の全日本選手権で優勝することができたので、東京五輪にむけた強化指定選手に選んでいただくことができました。あとは自分の映像作品を残すことにも力を入れていて、昨年は2つの世界規模のオンラインコンテストで優勝することができました。

ーではスケートボードを始めたきっかけを教えてください。

じつは父親がサーファーでして、家の近くに小山公園スケートパークができたことから、まずは父がサーフィンのオフトレとしてやっていたんです。

そこに私もついていって、最初の半年くらいはローラースケートとかをやりながら遊んでいたんですけど、楽しそうに滑る父の姿を見たら自分もやりたくなって本格的に始めました。それが6歳の頃です。

ーかなり若くしてはじめられましたが、はじめた当初の記憶はありますか?

さすがに6歳だと私自身ほとんど記憶にありません。ただ両親がいうに幼少期の私は本当に飽きっぽい性格で、いろんなことをやってはやめてということの繰り返しだったそうです。

それがなぜかスケートボードだけはお父さんのを借りて延々と遊んでいたみたいで。なので1週間頑張ったら自分のスケボーを買ってくれると両親と約束をしたら、今まで見たことないくらい頑張ってたんだよって話していました。

おそらくはじめから私に合っていたんだと思います。

 

スケボー漬けの毎日と優しいお兄さんたちの存在

藤澤虹々可(スケートボーダー)

ーでは記憶がある最初の頃の思い出を聞かせていただけますか?

スケートボードはやるものなんだって思っていましたね。学校が終わったらすぐに小山公園のパークに行って、練習したら帰ってご飯食べて寝るという1日のルーティーンが、物心がついた頃にはすでにでき上がっていたので、自然とそうなっていたと思います。

そもそも最初に出会ったのは幼稚園の頃ですし、同世代の友達と遊びたいとか、そういう感情が生まれる前にすでにスケボー漬けの毎日になっていました。だから選択肢もなにもなかったんですよ。今思うと、言い方は悪いですけどある意味洗脳されてたのかもしれないです(笑)。

だからそれが嫌になることもありましたけど、そのおかげでここまで上達することができたので今は感謝しています。ただ私たちの世代で活躍しているスケーターは、そういう経験をしている人が多いと思います。

ー幼少期にそのような経験をすると辞めてしまう人も多いと思いますが、藤澤選手は今もこうして国内トップの選手として活躍されています。その理由は何だと思いますか?

小山公園のお兄さんたちの存在がすごく大きかったと思います。私の地元には玉野辰磨さんというプロスケーターがいるのですが、小さい頃は彼のスポンサーされているブランドを揃えていました。

というのも、お兄さんたちが当時小学生だった私にいろいろなトリックを優しく教えてくれたんです。

そのトリックをメイクしたらウワーって場をを盛り上げてくれたりとか、そういう人の暖かさに触れることができたから、練習が辛くても頑張ろうって思えたんです。

今もYouTubeに上がっていますけど、1カットだけ出させていただいた奥野健也さんのThe Days Innなんかは、まさにそんな当時を象徴していると思います。 

 

9年前にYouTubeを通じて大ブレイク

藤澤虹々可(スケートボーダー)

ー世の中に藤澤選手の名前が広まったのは幼少期のライディングを収めたColorful ProjectのYouTube映像だと思いますが、当時はどんな記憶はありますか?

あの時は八王子の戸吹スポーツ公園で滑っているときに、ガールズスケーターを盛り上げる活動をしていたチヒロック(内田ちひろ)さんが、今ガールズスケーターのYouTubeを作っていて、私をピックアップしたいんだけどって声をかけてくださったのがきっかけです。

そこから今はACTSbStoreを運営している地元の良きお兄さん、裕次郎(寺井)くんが小山で撮影した映像を毎年DVDにしていたので、その映像をまとめたのも送って『2012. Feb. Nanaka Fujisawa』ができ上がりました。

当時は今ほどYouTubeは盛り上がっていませんでしたけど、すごい勢いで再生回数が伸びていきました。今では26万再生されています。今の時代に同じようなことが起こったら、もしかしたらもっと伸びていたかもしれないですね(笑)。

でもそのおかげで初めてTVの取材が受けることになりましたし、今でもTV局の方とかがこの映像のことで声をかけてくださるのですごく嬉しいです。

誰でもアクセスできるYouTubeに昔の映像を残しておくと、こんなこともあるんだなぁと思いました。

ーただ今でこそガールズもコミュニティが確立してきていますが、当時はもっと小さなシーンでした。その上での苦労や印象的なことなど、何かエピソードはありますか?

やっぱり昔は地元以外のパークに行ったりすると、「えっ、オンナのコ!? しかも子ども!?」みたいな反応だった記憶があります。

でも、今はどこに行っても女の子スケーターはいるし、新横浜とか駒沢とかは女の子同士がグループでいたりするので、本当に人口が増えたなあという印象です。

ただ私の場合は、苦労というより数少ない女の子だからこそ、こうして取り上げてもらえてるのかなと思っています。やっぱり人口が増えたとはいえ、まだまだメジャースポーツに比べたら少ないので。

そこはしっかり肝に銘じてというか、こうして取り上げてもらっている以上もっと一般にスケートボードの魅力を広めていかないとなって思いますね。

 

かけがえのない幼なじみの存在

藤澤虹々可(スケートボーダー)

ー数が少ないとはいえ、当時からよく一緒に滑っていた人に伊佐姉妹がいると思いますが、彼女たちは藤澤選手にとってどういう存在ですか?

彼女たちとは本当に出会った頃も覚えていないくらい古い付き合いなんです。

まず妹の風椰とは学年も一緒だし幼稚園も一緒だったんです。ただ大きな所だったので当時から交流があったわけではないですけど。それに風椰はQuestパーク、私は小山公園をそれぞれローカルにしていたので、常に一緒に滑っていた訳ではありません。

でも会うといつもめちゃくちゃ仲良しですよ。もう滑ることよりも喋りに夢中になっちゃうくらいの友達です。やっぱり地元が同じで、小さい頃からスケボーしてる女の子は他にいないので、とても貴重な存在ですよね。

同世代に彼女がいるから辛いことがあっても頑張れるし、乗り越えられるのかもしれないですね。

あとお姉ちゃんの風秋とは最近よく一緒に滑ってます。風秋は全日本選手権で優勝して、アジア大会でも銀メダルになった風椰を昔から見てサポートしてきたので、私にもすごい的確なアドバイスをくれるんです。

私にはそういうお姉ちゃんがいないのですごく頼りになる存在です。じつは去年リリースしたExposureのパート撮影のときも、撮れないときがあってくじけそうになって泣いちゃったりしてたんです。

でも、そんなときに風秋を撮影に呼んで、心の面でサポートしてもらいました。

藤澤虹々可(スケートボーダー)

 

公立高校の受験失敗が転機に

藤澤虹々可(スケートボーダー)

ー高校は通信制を選んだそうですが、その理由を聞かせていただけますか? やはりスケートボードのだったのでしょうか?

スケートボードのためといいたいんですが、じつは私、公立高校の受験に失敗しているんです。

行きたい高校があったので中学2年生くらいから塾にも通いはじめて、当時はあまりスケートボードしてなかったんですよ。

それに小学生の頃は遊ぶ時間がなかった分、中学生では自由になったから「友達と遊ぶのが楽しい!! 」とか、「行きたい高校のために勉強しなきゃ!! 」という気持ちの方が勝ってたんです。

ただ、途中で行きたいと思っていた課がなくなってしまって。でもその高校には行きたかったからスポーツ課で入試を受けたんですけど、そこにスケートボードは認めてもらえなくて、仕方なく走り幅跳びで受けました。

そうしたら案の定落ちてしまって……。

通常なら私立の併願とかをすると思いますけど、私はその高校に行けないんだったら高校には行きたくないと思っていたんです。落ちたらスケートボードをしろっていう神様からのお達しなんだなと、再びスケートボードに本格的に打ち込むことにました。

学校の先生からも二次募集の話をいただいたんですが、「結構です。スケボーします!」と断り、通信制の公立高校を選びました。

でも高校時代にコンテストで結果を残せたのもあって、途中で碧莉(西村)とか慧野巨(池)が通っていたスケートボードに理解のある高校の特待生資格がとれたので、転校して1年半くらい通って半年遅れで卒業しました。

この高校もそうなのですが、昔の話を聞くと今はスケートボードに理解のある高校が増えたなと思いますね。

ー高校受験の失敗が人生の転機になったんですね。

はい。私はこの受験失敗がなければ、おそらくスケートボードは辞めていたと思います。高校に通いながらバイトして、スケートボードもしてっていう生活は無理だったと思いますし、アメリカにも行けていなかったんじゃないかなと。

今となっては高校に落ちたことがすごくプラスになってるので、まったく恥ずかしいことだとは思っていないですし、勉強ばかりしていた中学時代は自分の中では笑い話みたいな形で消化されてます(笑)。

 

Profile: 藤澤虹々可(ふじさわ ななか)

2001年11月8日生まれ 神奈川県相模原市出身 スポンサー:adidas skateboarding、meow skateboards、push grip、Lafayette、act sb store。
ガールズレベルを超越したスピーディーかつダイナミックなライディングが持ち味。2019年の全日本選手権で優勝し、東京オリンピックに向けた強化指定選手として活動しているだけでなく、19歳にしてストリートで収録したフルパートを3本も残し、オンラインの世界戦でも優勝するなど映像作品制作とコンテストの双方で活躍するハイブリッド。チャームポイントのメガネルックと温厚かつ人情味あるキャラクターで多くの人物から愛されている日本を代表するトップガールズスケーターの1人。

※このインタビューは2020年12月に取材撮影を行った記事になります。

 

ワールドワイドオンラインコンテスト優勝から五輪予選へ。 スケートボーダー 藤澤虹々可 取材録パート2

ワールドワイドオンラインコンテスト優勝から五輪予選へ。 スケートボーダー 藤澤虹々可 取材録パート3

小学生で天才少女と注目を浴びつつも一旦はスケートボードから離れてしまった藤澤選手。それでもこうして戻ってきて国内トップ選手として活躍されています。次回は、高校時代の再ブレイクから、自身を襲った前十字靭帯断裂という大ケガからの劇的な復活についてお話を伺います。

ライター

吉田 佳央

1982年生まれ。静岡県焼津市出身。高校生の頃に写真とスケートボードに出会い、双方に明け暮れる学生時代を過ごす。大学卒業後は写真スタジオ勤務を経たのち、2010年より当時国内最大の専門誌TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン・編集・ライターをこなし、最前線のシーンの目撃者となる。2017年に独立後は日本スケートボード協会のオフィシャルカメラマンを務めている他、ハウツー本も監修。フォトグラファー兼ジャーナリストとして、ファッションやライフスタイル、広告等幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を広げ続けている。