幻の1940東京オリンピック、そして「1964東京オリンピック」開催
1964年に誕生した人は現在56歳。
実際に応援に行った、またはテレビで応援しておぼえているという世代は、60歳以上ということになります。
年を追うごとに、1964東京オリンピックのことを語れる人たちが減っていく中、前回の東京オリンピックの意義は何だったのか?
東京2020オリンピックを間近に控えた今こそ、あらためて検証して再評価する良い機会なのではないでしょうか。
幻に終わった「1940東京オリンピック」について
1964東京オリンピックからさかのぼること28年前、実は1940東京オリンピックの開催が決定していました。
当時の日本は、世界の列強と肩を並べる5大国(アメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリア)のひとつに数えられていました。
1936年、ベルリン・オリンピック開催時に行われたIOC総会において、東京での開催が決定しました。アジアにおいて、また欧米以外の有色人種国家においても、始めて開催されるオリンピックになる予定でした。
しかし、翌年の1937年に日中戦争(支那事変)が勃発。鉄鋼やさまざまな軍需物資が不足したため、軍部が馬術競技に騎兵将校を出場されられない(当時の馬術競技は各国の騎兵将校間の競技)といい出しました。
そして、政府から東京市へ、オリンピックの開催を返上すべきとの通達が出され、招致に苦労してきた関係者が涙する中、開催を返上することになりました。
復興と世界平和を世界に向けて誇示
つまり、「オリンピックは平和の祭典」とあげられていますが、1940東京オリンピックは、戦争が勃発し、開催出来なかったということです。
1940東京オリンピックを返上した後、日本は第二次世界大戦に参戦して敗戦しました。
1964東京オリンピックは、戦禍から復興した日本が、再び国際社会の中心に復帰したことを、世界に向けて誇示する良い機会になりました。
第二次世界大戦に負けて、最大被援助国まで落ち込んだ国が、わずか数十年で最大援助国に復活するという、世界で例を見ないような経験をした日本。
1964東京オリンピックは、この経験を世界平和に生かしていくという「日本の誓い」を、全世界に向けて宣言する大会でもありました。
帝国列強によって支配されてきたアジアやアフリカの植民地が次々に独立したこともあり、1964東京オリンピックには、過去最高の94もの国や地域の代表選手が参加しました。
「1964東京オリンピック」が残したレガシー
1964東京オリンピックは、現在にもつながる数々のレガシーを残しました。
その中には、世界最速を誇る高速鉄道「東海道新幹線」や首都高速などがあります。
また、かつての占領国であるアメリカが接収して、兵舎や家族用居住宿舎として使用していた在日米軍施設「ワシントンハイツ」(92.4万平米)が代々木にありました。
しかし、1964東京オリンピックの開催が決定し、選手村や競技場用地として利用することになったため、日本に全面返還されることになりました。
跡地には、選手村と国立代々木競技場、国際放送センター(現在のNHK放送センター)などが建設され、現在も国立代々木競技場とNHK放送センター(東京オリンピック2020閉幕後に建て替え予定)は、現役で活用されています。
また、選手村などがあった用地は代々木公園として整備されました。
この記事を書いた人
Greenfield編集部
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