川合美乃里(かわい・みのり)。2000年12月14日生まれ。6歳のときにサーフィンを始める。13歳のときに史上最年少で日本プロサーフィン連盟(JPSA)のプロ資格を取得し、2016年にはグランドチャンピオンに。その後も国内外のコンテストで好成績を残す。これからも活躍が期待される若手女性サーファーの1人。
嫌で仕方なかった始まり
―まずは、生年月日などプロフィールを教えてください。
川合選手 2000年12月14日生まれで、AB型です。13歳のときにJPSAのプロになりました。
―サーフィンを始めたきっかけはどんなことだったのでしょうか?
川合選手 お父さんがサーフィンをしていたんです。お母さんと一緒にビーチでサーフィンを見ていたら、お母さんが急に「私もサーフィン始めようかな」って言い出したんですよ。私としては置いていかれるのが嫌で、お母さんについて行って始めたって感じです。
―自ら「やってみよう」という思いはなかったのですね。
川合選手 全然。そのころは、顔を水につけられなかったんですよ。そもそも好きじゃなかった。怖いっていう気持ちもあったんですけど、サーフィンを始めたのが冬だったので、寒くて寒くて。
毎日、海に連れていかれるときに車の中で「波ありませんように!」って祈ってました(笑)。それで波がなかったら「よしっ!」ってなったりして。本当に嫌いでしたね。
あと、ライフジャケットとゴーグルをつけてやってたんですよ。顔に水が当たるだけで怒っていました(笑)。それが6歳のときです。
―どうしてお母さんは突然、冬にサーフィンを始めたのでしょう?(笑)
川合選手のお母様 季節に関係なく、サーフィン欲が高まっちゃったんですよ(笑)。
川合選手 冬だったし、嫌いだったけど、サーフィンを辞めるっていう選択肢はなかったですね。お父さんがスパルタだったので。お父さんはプロサーファーになりたかったんです。でも無理だったから、その夢が私に来たので、私にとっては最悪でした(笑)。
プロサーファーになるために
―いつからサーフィンが楽しいと思い始めたのですか?
川合選手 小学校5年生のときです。NSA(日本サーフィン連盟)で勝てるようになってきたんです。そのあたりから、勝つことが楽しくなってきました。全国に友達ができるようになったのも大きな理由ですね。試合会場に行けば友達に会えるじゃないですか。
―初めてサーフィンをした場所はどこでしたか?
川合選手 徳島市の小松海岸です。普段はほとんど波がない場所だったので、週末には高知県の生見海岸とかに行ってました。
―6歳から小学校5年生になるまでサーフィンが楽しくなかったというのは、嫌いな期間が結構長かったんですね。
川合選手 もちろんある程度は楽しいとは思いましたけど、自分の気持ち的に「やりたい」って本気になるまでは時間がかかりました。
―もともとサーフィンをさせたかったお父さんとしては、お母さんと一緒に美乃里選手が始めると言いはじめたのは「しめた!」と思ったのかもしれませんね。
川合選手 そう!しかもお母さんは3年でサーフィンを辞めちゃったので、お父さんの熱は全部私に向いたんですよ(笑)。
川合選手のお母様 小学校4年生のときに、NSAの全日本選手権に初めて出場したんですけど、それに向けて美乃里が練習を始めたら、私は映像を撮る方にシフトしちゃって。私が先にサーフィンを辞めて、それから美乃里が1人で波に乗れるようになったら、パパもビデオ係になりました。
川合選手 サーフィンだけだったらまだよかったんですけど、スケートボードもやらされていたので…。
―やらされていた、という感じだったんですか?
川合選手 はい、完全にやらされていました。サーフィンと同じ6歳のときに始めて、中学校に上がる前までやっていました。そのころはスケボーが毎日の日課で、サーフィンよりもやってましたね。学校から帰ってきたら、波がないからそのままスケボー。
―スケーボードで陸トレして、その成果を週末にサーフィンで発揮していたということですか?
川合選手 そうです。波があっても、スケボーでのトレーニングはやっていましたよ。夏だと20時くらいまで明るいじゃないですか。波があったら日没までサーフィンして、そこから室内でスケボーを22時までやるんです。わけもわからずスケボーの試合にも出場させられましたし(笑)。
スケボーはコケると痛いじゃないですか。私はそこまでプレーで攻められなかったし、ひどいケガをしたらサーフィンができなくなるから辞めました。
―サーフィンとスケートボードのどちらを取るか、天秤にかけることはありましたか?
川合選手 それはなかったです。というか、地元にあったスケボーショップがなくなったのも、やらなくなった原因でした。自分にはある意味ありがたかった(笑)。
―スケートボードは今でもできますか?
川合選手 ある程度は。昔に比べたら全然できないです。ただ滑って、少し技ができる程度。オーリーはギリギリできるけど、ストリート系は無理です。ケガをするから、という理由でお父さんが私にストリート系をやらせなかったですね。
―お父さんの考えとしては、あくまでもサーフィンのためのスケボーだったのですね。
川合選手のお母様 今でもたまに言いますよ、「スケボー、せぇへんかなぁ」って(笑)。
2度と同じ波が来ない奥深さ
―川合美乃里選手にとって、サーフィンの一番の魅力はなんですか?
川合選手 えぇ〜っ、なんだろう…。いろいろあるけど、やっぱり同じ波が来ないことなのかなぁ。ウェーブプールもやったけど、どうしても飽きちゃう。反復練習にはなりますけどね。感動を味わえないっていうか。
サーフィンをやっていると「あぁ、今のよかったぁ!今日一番の波だった」って感じることがあるじゃないですか。でも、ウェーブプールだと待てば絶対に波が来るので。「同じ波がいっぱい!」っていううれしさはありますけどね。海でやるサーフィンには、やっぱり幸福感があります。
―今まで乗った中で、一番よい波をウェーブプールで作り出せて、何本も乗れるとしたらどうでしょう?
川合選手 えーっ!わざわざその土地にまで行って、たまにしか来ない波に乗れるから魅力を感じるのに、何本も乗れるとなると、なにに魅力を感じるのかわからなくなりそう。飽きてやらなくなる気がする。私は「行ってよかった」「また行きたい」って思いたい。
サーフィンが楽しいと思えるように
―ちなみに、一番よかった波はどこですか?
川合選手 オーストラリア・ゴールドコーストのスナッパーが一番よかったですね。長く乗れるし、私がレギュラーフッターだから。あと、上手い人もいるし。あの混雑の中から波を取る楽しさもあるし(笑)。「よし!頑張ったぞ!」みたいな。
―根っからのコンペティターですね(笑)。では、サーフィンのキャリアのなかで、ターニングポイントとなった出来ごとはどんなことでしょうか?
川合選手 今、WSL(ワールドサーフリーグ)のCT(チャンピオンシップツアー)に上がるためのツアーがCS(チャレンジャーシリーズ)とQS(クオリファイングシリーズ)に別れたじゃないですか。でも、新型コロナが流行する前はみんなQSを回っていて、私も回っていました。
千葉県の一宮町で、2017年に開催されたQS3,000で優勝して、必然的にQSを回れるようになって。ある程度成績を残していたので、上位の方で回れていたわけですけど、新型コロナが流行する1年~1年半前くらいから海外で勝てなくなってきて。そもそもいい波に乗れない状況が続いてたんです。
とりあえず、波に乗れば勝てるっていうヒートもあったんですけど、負けすぎていろいろな感情が沸き起こっちゃって。そもそも試合会場に来るまでにお金かかってるし、「また負けたらどうしよう」って思うようになったんです。
それまでそんなことはまったく思わなかったんですよ。本当に病んでるというか、サーフィンを辞めたいって思うくらいになって。お父さんにもいろいろ言われましたね。
川合選手のお母様 シーズン最初の試合会場だったオーストラリア遠征に向かう瞬間、まさに「さぁ行くぞ」っていうときに、ね。
川合選手 なにか変えないといけないと思って、試合前の練習を多く取ろうとゴールドコーストに行くことにしたんです。
川合選手のお母様 出発当日に「勝たないと、来年はツアーを回れなくなるぞ」って言われたんですよ。
川合選手 それは本人が一番わかっていることじゃないですか。しかも親のお金で海外を転戦しているわけじゃないのに。
でも、実際にゴールドコーストに行ったら結構楽しくて、サーフィンも変わったんです。そうしたら、コロナの影響で試合がなくなって、試合から離れられて。友達と遊んだり、普通に楽しくサーフィンする時間を過ごせたりしたんです。
それで、自分が好きになってやってることに対して、ここまで追い詰められて、辞めそうになるくらいにまでになるのは「絶対におかしい、サーフィンをもっと楽しんだほうがいい」って思うようになりましたね。180度考え方が変わったというか。前まではコンペだけだったので。
コンペで遠征しても、行った国で楽しむことはなかったし。あんなにいろんな国に行ったのに、観光さえしてこなかった。でも、今年はインドネシアのニアスやクルイに行ったけど、負けても「せっかく来たんだから、その土地のことを理解したり楽しんだりした方がいい」って思えたんです。
ライター
中野 晋
サーフィン専門誌にライター・編集者として20年以上携わり、編集長やディレクターも歴任。現在は株式会社Agent Blueを立ち上げ、ライティング・編集業の他、翻訳業、製造業、アスリートマネージング業など幅広く活動を展開する。サーフィン歴は30年。