ベトナム北部・サパにそびえるファンシーパン(標高3,147m)。登山に挑戦するために訪れたものの、台風による前日の大雨で登山道は泥の海。山頂は嵐というオーナーの助言もあり、結局、ケーブルカーとロープウェイで登ることに。“登らなくても登れる”という文明の恩恵の中で、自然との距離、そして「委ねる」という選択の意味を静かに見つめ直しました。本稿は、ベトナム・サパの旅を描く連載の第2回です。
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“東南アジアの屋根”──インドシナ半島最高峰、ファンシーパンとは

ベトナム北部・ラオカイ省サパにそびえる標高3,147メートルの山、ファンシーパン。“ルーフ・オブ・インドシナ(東南アジアの屋根)”と呼ばれ、ラオスや中国の国境を望むその姿は、登山者の憧れとされてきました。
ファンシーパンの基本情報
| 所在地 | ベトナム北部・ラオカイ省サパ |
| 標高 | 3,147メートル(インドシナ半島最高峰) |
| 別名 | ルーフ・オブ・インドシナ(東南アジアの屋根) |
| 特徴 | サパの中心から約9km。以前は登山者のみが到達できたが、2016年に世界最超級のロープウェイが開通し、誰でも気軽に山頂を訪れることが可能に。 |
| 見どころ | 山頂の仏塔群・巨大観音像・雲海の絶景・霧に包まれる祈りの風景 |
| 所要時間 | 登山:6〜8時間(ケーブルかー+ロープウェイ+山頂ケーブルカーの場合はサパ駅から約30分) |
| 気候 | 年間を通して冷涼(平均気温15℃前後)。10〜3月は霧が多く、朝晩は10度を下回ることも。 |
現在はサパ最大の観光地となり、世界最長級のロープウェイが開通。誰でも気軽に空を渡り、頂上を目指せるようになりました。自然と文明、祈りと観光。その両方を象徴する山—。それがファンシーパンです。
私が計画したのは自分の足で山頂を目指すこと。「山に登るのが好きだから」という、ただそれだけの理由。頂上に立ちたいわけでも、記録を残したいわけでもありません。空気の重さ、道の湿り気、膝の痛み。そうした一つひとつが、生きている実感につながるような気がしてー。
だから、重たい登山靴を、わざわざ日本から持っていきました。荷物の中でもひときわ場所を取るその靴を。ファンシーパンに“登る”という行為そのものに、ずっと憧れがあったのです。
登山を断念する朝─“登らない勇気”

ファンシーパンの麓は快晴。山頂の天候が荒れているとは、とても信じられない青空でした。
登山当日の朝、サパの町は晴れていました。空気は澄み、宿のテラスからは山並みの稜線がくっきりと見えます。ザックを肩にかけた瞬間、胸が高鳴ったことを覚えています。
けれど、宿のオーナーさんが山頂の天気を確認して首を横に振りました。「上は嵐みたいですよ。昨日の大雨で登山道は泥の海です。行くならケーブルカーのほうがいいです」
その一言で、登山の予定はあっけなく消えてしまいました。街は晴れているのに、山の上は別世界。標高3,000メートルを超える山の天気は、見えている空とはまったく違うのだと改めて思い知らされました。
晴れているのに登れないなんて。山道を自分の足で登ることをずっと楽しみにしていたのに。頭では安全のためとわかっていても、心のどこかで“行けるかもしれない”と思ってしまう私がいます。その思いが、じわじわと悔しさに変わっていきました。
オーナーの声には、山を知る人だけが持つ静かな確信がありました。“行けない”という判断は、自然への挑戦をやめることではなく、自分や周りの人を守るための選択なのだと思いました。
私はその判断を尊重しようと、ザックを静かに降ろしました。山は、人間の都合では動かない。雲の流れを見ながら、ただ、その事実を受け止めるしかありませんでした。
ケーブルカーとロープウェイで空を渡る─文明の力に身を委ねて

ファンシーパン山頂へはサパ駅からケーブルカーとロープウェイを乗り継いで向かいます。
結局、私は登山靴を脱ぎ、ケーブルカーとロープウェイのチケットを手にしました。登山料を合わせると、日本円でおよそ7,000円。この価格は、ベトナムの平均月収(約4〜5万円)に比べても決して安くはありません。
それでも、駅前には家族連れや若者たちが列をなし、笑顔で写真を撮っていました。ファンシーパンは“挑む山”から、“訪れる山”へと変わりつつあるのかもしれません。

ゴンドラが動き出すと、眼下に棚田が広がります。霧が晴れるたび、集落の屋根が赤く光り、遠くから雷鳴が響く。高層ビルをはるかに超える標高を、機械の力で一気に駆け上がる。快適さの裏に、どこか置き去りにされた感覚がありました。
頂上には霧。見えない山を見に行く

山頂はまるで雲の中に沈んだような霧。「上は嵐ですよ」と言っていたオーナーの言葉が胸に沁みてきました。
山頂は真っ白な霧の中にありました。数メートル先すら見えない。風が肌を叩き、僧侶の読経と線香の香りが霧の中を漂っていきます。観光地というより、“祈りの場”に近い静けさでした。見上げても仏塔が見えない。霧は私の期待もいっしょに包み込んでしまったようでした。
せっかくここまで来たのに—。そんな思いが胸の奥をかすめたときでした。風の向きが変わり、霧がゆっくりと裂けていきます。白い幕の隙間から、赤いベトナムの国旗が空を切るのが見えました。濃い霧の向こうで、確かに“山”が息をしている。

誰かが小さく息をのむ音。続いて、歓声。
私も思わず手を合わせていました。
“見えること”より、“待つこと”。
自然は時に気まぐれに、人の都合より少し遅れて答えをくれるのだと思いました。
登らずに登るということ──自然に委ねる生き方

ファンシーパン中腹の広場。売店やレストランが整備され、登山者の憧れだった山は、観光地として新たな姿を見せていました。
下山のケーブルカーで、私は登山靴の重さを思い出していました。登らずに終わった登山靴。でも、それがムダだったとは思いたくありません。山頂まで“登っていない”のに、なぜか心は静かに満たされていました。たぶんそれは、「思い通りにならない自然」に抗うことを、この旅で少しだけ手放せたからかもしれません。
便利さの中で、私たちはいつでも何かを“コントロールできる”と錯覚してしまう。でも、自然の中では、それが通じない。風が止むのを待つしかない時間、霧の向こうにあるものを“見えないまま受け入れる”時間。その静けさの中で、私は久しぶりに「委ねる」という感覚を思い出していました。
自然と関わることの意味は、“挑むこと”ではなく、“委ねること”。
自分の力ではどうにもならない瞬間にこそ、人は自然の一部としての自分に戻れるのだと思います。登らなかったけれど、この山で得たものは、汗を流して登った山と同じくらい、大きかった気がします。
文明の力で登った山も、そこに心があれば、きっと“登山”なのだと思います。汗を流さなくても、足を踏み出さなくても、立ち止まって空を仰げば、自然はいつもそこにある。次回は、ファンシーパンのふもとに暮らすモン族の村へ。山の息づかいとともに生きる人々の姿に、「自然とともに続ける」という日々の知恵を見つめます。
ライター
Ryoko
ひとり海外旅行と海外トレッキングを愛し、自然や文化に触れる旅をライフワークにするライター&エディター。猫と音楽にも目がなく、心惹かれる音や風景を文章で切り取るのが得意。国内外のフィールドで得た体験を、読者と共有することを楽しみにしている。