最初からのめり込んだサーフィン
―最初からサーフィンにはまったんですか?
(天獅)はい。めちゃくちゃ楽しくて。一番初めのサーフィンのことはほとんど覚えていないんですけれど、始めて間もないころ、茨城の海に入ったときのことはすごく印象にあります。
最初、父の肩に掴まりながらサーフボードの上に立った状態で、押してもらって波に乗ったんです。スポンジ製のサーフボードで、当時としては超デカい波が割れる海に入ったのも覚えてますね(笑)。それも確か5歳のときです。
(父) 面倒だったから、僕自身が入りたいところの海に行って、無理矢理沖まで連れて行って、スポンジボードでやらせていました(笑)。アタマくらいのサイズはあったんじゃないかな。
(天獅) めちゃくちゃ怖かったですよ(笑)。
―それでサーフィンを嫌にはならなかったんですね。
(天獅) 大丈夫でしたね。最初から子ども扱いされていなかったんだと思います。
(父) 「俺たちはここで入るけど、天獅がサーフィンしたいんだったらやればいい」っていうスタンスでした。でも、波が大きいときには「やめておけばいいんじゃない?」っ言っていました。
夢のための大きな決断
―移住する前はどんなペースで海に入っていたんですか?
(天獅) 基本的には週2日です。夏だけは、金曜日に学校の授業が終わったらすぐに海に向かって、30分とか1時間でもいいから海に入っていましたね。
―オリンピックのサーフィン会場になっている釣ヶ崎海岸だと、今は多くの子どもたちが親のサポートを受けて毎日、学校終わりにサーフィンしていますよね。
(天獅) 相当恵まれていると思います。今のもっと若い子たちは両親にビデオを撮ってもらっているじゃないですか。自分の場合は、最初ビデオも撮ってもらえませんでしたから。
(父) 面倒だったんです(笑)。でも、あまりにも何度も撮ってくれって訴えられたので、「じゃあ撮ってやるよ」って言って撮影したのはいいんですが、声しか入っていなかったり、テイクオフした瞬間しか映っていなかったりしていました(笑)。
これじゃ話にならないって思ったらしく、母親に土下座して撮影を頼んでいましたね。
(天獅) 母親は最初からサーフィンには反対だったんです。「なんでサーフィンなんかやるの?」みたいな。母親は勉強を頑張って欲しいと思っていましたから。
―今は撮影にも試合にもとても協力的に見えますが、その両親の反対はいつくらいに変わったんですか?
(天獅) ちょうど移住するタイミングです。「千葉に行くからにはサポートする」という感じでした。
(父) 1年はサポートするって決めて、覚悟しましたから。母親も同じでした。移住するのも、天獅が勝手に学校に言っちゃっていたんですよ。
(天獅) 小学校3年の二学期の終業式に発表した校内作文で、そのとき目指していた最年少プロになるために、海沿いに引っ越して、毎日海に入るって書いたんです。
(父) 学校から電話があって、「夢のために引っ越すって言っていますが…」と言われて(笑)。そのときは完全に移住はダメだって言ってたんですけれど、サーフショップの人たちも「天獅が引っ越してくるんだって?」って盛り上がっていて。
じゃあ仕方ないか、と。その代わり、やる気が見られないようだったら戻ると約束させました。母親は朝、勉強しないと絶対に夕方にサーフィンさせないっていうスタンスでもありましたし。
だから、朝にサーフィンすることはほとんどなかったですね。朝、波がいいことがわかっていて、どうしてもサーフィンしたいときは、前日の夜のうちに全部終わらせることが条件。
(天獅) 大変でしたね。ただ、朝、海に入れない分、サーフィンに対する気持ちを夕方の海にぶつけるようにしていました。他の人は朝、海に入っているから、逆に学校で眠くなったりしていましたけど。
この記事を書いた人
中野 晋
サーフィン専門誌にライター・編集者として20年以上携わり、編集長やディレクターも歴任。現在は株式会社Agent Blueを立ち上げ、ライティング・編集業の他、翻訳業、製造業、アスリートマネージング業など幅広く活動を展開する。サーフィン歴は30年。