自転車の世界三大ステージレース(グランツール)のひとつ『ジロ・ディ・イタリア(Giro d’Italia)』が行われるイタリアは、情熱と美に彩られた自転車大国です。北から南まで、地形も気質も異なるこの国では、自転車の楽しみ方もさまざま。ローマ近郊に暮らす筆者の目を通して、“厳しくも楽しい”イタリアの自転車文化を紹介します。
世界三大ステージレースが走る、自転車大国イタリア

私が暮らすローマ南東部のカステッリ・ロマーニ地方は起伏に富み、自転車好きにはたまらない環境です。週末になると、サイクリストたちで賑わいます。坂道が多く、私のような初心者にはなかなか厳しいコースですが、走り切ったあとの達成感は格別。
ここからは、イタリアに暮らす筆者の視点で、“自転車とともに生きる人々のリアルな日常”を紹介していきます。
イタリアが誇る自転車ブランド
イタリアでは、日常の中に自転車が溶け込んでいるだけでなく、世界的に知られる名ブランドを数多く生み出してきました。職人の技と美意識がもたらすものづくりは、イタリア人の“自転車への愛”そのもの。
イタリアを代表する2大ブランドビアンキ(Bianchi)とコルナゴ(Colnago)にも、その気質を見ることができます。
ビアンキ:伝統と“チェレステブルー”の象徴
1885年創業のビアンキは、「チェレステ(空色)」で知られるイタリアを代表するブランド。ファウスト・コッピをはじめとする名選手たちが愛用し、イタリアにおける自転車文化の“顔”として今も人々に親しまれています。
「ビアンキ」という名は日本でいえば「鈴木さん」のように一般的な姓ですが、ブランドとしての存在感は別格です。
コルナゴ:職人技が生む軽量と美
コルナゴは1954年創業。熟練職人の手による溶接技術や、イタリアらしい造形美で知られています。軽量かつ高い剛性を誇り、プロ選手から愛好家まで幅広く支持されてきました。
“走る芸術品”と呼ばれるそのフレームには、職人の誇りとデザイン哲学が感じられます。
2つのブランドは、まさに「伝統」と「革新」の象徴。イタリアの自転車文化を世界に広めた立役者といえるでしょう。
日本ブランドも負けていない!イタリア人にも愛される「シマノ(SHIMANO)」
イタリアの自転車ブランドがデザインと情熱で人々を魅了する一方で、日本の技術ブランドシマノ(SHIMANO)も確かな存在感を放っています。
変速機やブレーキなど、走行性能を左右するパーツの精度は世界トップクラス。イタリアのサイクリストの間でも「シマノの技術は本当にすごいね」という言葉をよく耳にします。
イタリアが“感性の国”なら、日本は“精度の国”。互いの強みが交わることで、世界最高峰のロードバイクが生まれる—。その関係性こそが、グローバルな自転車文化を支えているといえるでしょう。
1909年からから続く“情熱の祭典”ジロ・ディ・イタリア
イタリア人にとって自転車は、単なる移動手段ではなく「誇り」であり「情熱」。その象徴が、1909年から続くステージレース『ジロ・ディ・イタリ』です。
“イタリア一周”を意味するこの大会は、ツール・ド・フランスやブエルタ・ア・エスパーニャと並ぶ世界三大レース(グランツール)のひとつ。ファウスト・コッピやアルフレード・ビンダなど、伝説的な名選手たちがこの大会で国民的英雄となりました。
カステッリ・ロマーニ地方も、2019年にコースの一部に選ばれたことがあります。当日はあいにくの雨。それでも地元の小学生たちは授業を抜け出して沿道で声援を送り、坂道を駆け抜ける選手たちに夢中になっていました。
その光景を見たとき、「この国の人々にとって、自転車はスポーツである前に“文化”なのだ」と実感しました。
地形と都市で変わる“乗りやすさ”──北の平野と丘の町

スポーツとしての自転車が根強い人気を誇る一方、日常生活での自転車利用は地域によって大きく異なります。その違いを生み出しているのは、地形と町の成り立ちです。
北イタリアの平野に“息づく生活の自転車文化”
生ハムやパルミジャーノ・レッジャーノで有名な北イタリア・ポー川流域には、マントヴァやモデナといった小都市が点在。平坦な地形とコンパクトな町の規模が、自転車を最も効率的な移動手段にしています。
「ポルティコ」と呼ばれる柱廊が続く景観と自転車の組み合わせは、パダーナ平野を象徴する風景のひとつです。
丘の町では、自転車が“挑戦”になる
絵画のようなイタリアの丘の町。「この坂道を自転車で走ってみたい」と思う人も多いことでしょう。
けれど、実際に生活の足として自転車を使うのは、想像以上にハードです。坂道が多く、舗装も荒く、まさに“挑戦”の連続。この風景が生まれた背景には、長い歴史があります。古代ローマ帝国が崩壊した後、各地の町はサラセン人などの海賊襲撃に備えるため、標高の高いところに築かれました。
いわば、防衛のための地形。その構造が今も町のかたちとして残り、自転車を“試す”ような坂道になっています。
外から見ればまるで絵画のような美しさ。暮らす人にとっては、毎日の坂道が筋トレのような日常。その“厳しさと美しさ”が、イタリアの丘の町の魅力といえるでしょう。
ローマやナポリでは、自転車より“バイク”が主流
坂道の町が多いイタリアの中でも、ローマやナポリはとくに自転車に厳しい都市です。ローマは「7つの丘の都」呼ばれるように起伏が多く、ナポリもまた坂道と階段が入り組む地形。地図で見るよりもはるかにアップダウンがあり、観光で訪れる人が想像する“ヨーロッパの街並み”とはだいぶ違います。
さらに交通事情も、自転車には向いていません。ナポリでは「ブレーキが壊れても直さないが、クラクションが壊れたらすぐ修理する」と冗談が言われるほど、車の運転が荒いのです。
ローマも同様で、交差点ではクラクションと怒号が飛び交うのが日常。そんな環境の中、自転車で走るのはまさに命がけ。そのため、ローマやナポリで主流なのはバイクです。
狭い路地を縫うように走り抜ける姿は、イタリアらしいスピード感と自由さの象徴。とはいえ、観光客が気軽に真似できる環境ではありません。
風情ある石畳もまた、自転車泣かせ。凹凸の多い路面にハンドルを取られ、タイヤを傷めることもあります。見る分にはロマンチックでも、走るにはハード。それが、南部都市の“現実”です。
坂道があっても自転車を持たなくても─ イタリア人の“走る喜び”

坂道が多く、日常での自転車利用が難しい国・イタリア。それでも多くの人が、自転車とともに過ごす時間を愛しています。家族でレンタルサイクルを楽しむ人、風景を味わいながら走るサイクリスト、クラシックレース「レロイカ」に参加する人々─。
“自転車で走る喜び”を忘れないイタリア人の姿を見ていきましょう。
観光地にも広がるレンタルサイクル文化

坂が多くても、ペダルをこぐことをあきらめないのがイタリア人。自転車を持たなくても、観光地や公園にはレンタルサイクルがあり、休日になると家族や友人とともに走り出す姿があちこちで見られます。
私の住むローマ近郊にも、古代ローマ時代の水道橋が続くエリアがあります。体力のない人には坂道のコースは厳しいですが、水道橋は平地にあるため、サイクリング好きの家族連れなどでにぎわいます。
草原の中に佇む水道橋に沿って走ると、風の音と笑い声がまざり合って、まるで時間がゆっくり流れているよう。坂の多い町では味わえない、のびやかな景色と風。
自転車を所有していなくても、“走る喜び”を体いっぱいに感じられるのです。
景色そのものがご褒美になるサイクリング
イタリアの自転車旅で、いちばんのご褒美は“風景”そのもの。遠くに霞む丘、黄金色に波打つ麦畑、そして春のポピー。ペダルをこぎながら感じる風と匂いが、五感すべてを満たしてくれます。
車では通り過ぎてしまうような小道にこそ、本当のイタリアの美しさがあります。コース沿いのバールで休憩すれば、隣に座った地元のサイクリストが“あそこの坂道は最高だよ”と、思いがけない名所を教えてくれることも。
走るたびに、新しい風景と人に出会うと、ただの移動が“詩のような時間”に変わっていくのを感じます。これこそが、私がイタリアのサイクリングを愛する理由のひとつです。
笑顔で走る大会「L’Eroica」
イタリアには、“順位よりも笑顔”を大切にする大会があります。その名は「レロイカ(L’Eroica)」。トスカーナの“白い道(ストラーデ・ビアンケ)”を舞台に、1987年以前に製造されたクラシックバイクと当時のウェアで走る、非競争型のイベントです(※)。
“Only vintage bicycles (built before 1987) are allowed, with period clothing encouraged.”
(訳:1987年以前に製造されたクラシックバイクのみが参加可能で、当時の服装の着用が推奨されている)
(※)出典:L’Eroica公式サイト
乾いた砂ぼこりの中、ペダルをこぐたびに上がる笑い声と歓声。途中の休憩所では、地元ワインとパンを分け合う光景も。まるでピクニックのような大会に、全国からサイクリストが集まります。
“早く走ること”ではなく、“楽しく走ること”。
その精神こそ、イタリア人の自転車愛を象徴しているでしょう。
子どもたちに受け継がれる“走る時”
カステッリ・ロマーニの中心にあるアルバーノ湖の周辺は、地元でも人気の自転車コースです。
坂道が多く、通常の自転車では走りづらい地形ですが、ここではマウンテンバイクが大活躍。子どもを対象にしたマウンテンバイクの講習は1年を通して行われ、初心者向けから経験者向けまで、さまざまなコースが用意されています。手ぶらで参加できる気軽さも魅力です。
山道にはムスカリやシクラメンが咲き、自然の中でペダルをこぐ時間は、大人にとっても子どもにとっても心地よいリフレッシュ。
“走る時間”が、家族の日常の中に静かにとけこんでいる─。
それこそが、イタリアらしい自転車文化の姿です。
ライター
cucciola
ヨーロッパの片田舎で家族と3人暮らし。
学生時代に都会の生活で心を病んで以降、スローライフとスローフードで心身の健康を維持。気が向くまま、思いつくまま、風まかせの旅行が多数。
アートと書籍を愛するビブリオフィリアで1人の時間が大好き。