「健康」と聞くと、多くの人は食生活や運動、サプリメントなどを思い浮かべるかもしれません。私も以前はそうでした。ペルーで獣医学を学び、その後、日本で鍼灸を中心とした東洋医学を学びました。西洋医学と東洋医学、動物と人。二つの異なる視点から、健康については人より少し多く勉強してきたつもりでした。
それでも、自分自身の病気と向き合うことになったとき、一番大切だったのは知識だけではなかったのです。
病気をきっかけに、ペルー・アマゾンで始めた新しい暮らし

2020年からの数年間、私の人生は大きく変わりました。新型コロナウイルスの流行で日本語通訳の仕事はほとんどなくなり、長年腎臓病と闘っていた父を見送り、離婚も経験しました。一緒に暮らしていた娘と元妻はブラジルへ移住し、それまで当たり前だった暮らしは大きく姿を変えました。
何もする気が起きず、横になってテレビを眺めているだけで、何を見たのかさえ頭に残らないまま一日が終わる。そんな日も少なくありませんでした。
それでも続けていたのが、週3日の鍼灸師としての仕事でした。気分が乗らなくても朝は起き、診療所では笑顔で患者さんと向き合います。身体の不調だけでなく、それぞれが悩みを抱え、誰かに話を聞いてもらいたい。そんな人たちと接するうちに、私自身も少しずつ日常を取り戻していきました。

当時は自分が人を助けているつもりでした。でも今振り返ると、むしろ私のほうが患者さんたちに助けられていたのかもしれません。
2023年頃からは通訳の仕事も戻り、再びペルー国内を飛び回るようになりました。「ようやく人生が軌道に戻り始めた」。そう感じていた矢先、私自身にも父と同じ先天性の腎臓病が見つかりました。病状はすでにかなり進行していました。

父が10年以上にわたり透析や手術を受ける姿を、私はそばで見てきました。だからこそ、自分はこれからどんなふうに生きたいのかを考えてみたのです。食事を見直し、できるだけストレスを減らし、生活そのものを変えてみよう。そうしてたどり着いたのが、「都会を離れて、アマゾンへ移り住もう」という考えでした。
その思いをパートナーの美鳥に話しました。付き合い始めてまだ1年ほど。ずっと都会で暮らしてきた彼女とは遠距離恋愛になるだろうと思っていましたが、返ってきたのは意外な言葉でした。
「一緒に行くよ。パートナーって、良い時も悪い時も一緒でしょう」
こうして私たちは、ペルー・アマゾンのカンポベルデで新しい暮らしを始めました。
アマゾンの森で気づいた、「ゆっくり暮らす」ということ

アマゾンでは、朝は鳥の声で目が覚めます。雨が降れば作業はできず、暑さで疲れれば昼寝をする。植物はこちらの予定など気にせず、芽を出し、花を咲かせ、実をつけます。害虫や病気で枯れることもあれば、ようやく実った果物を動物たちに先に食べられることもあります。農業は、思い通りにならないことの連続です。
森を歩けば、葉の形を眺め、鳥の声に耳を澄まし、昨日は気づかなかった花やキノコに足を止める。以前の私は結果ばかりを追いかけていましたが、今はその途中に流れる時間や、小さな変化にも価値があると思えるようになりました。
不思議なのは、ゆっくり暮らしているはずなのに、時間が以前より早く過ぎていくことです。毎日同じ森を歩いているようで、同じ日は一日もありません。その小さな違いに気づくことが、一日一日を豊かにしてくれているのかもしれません。
自然のなかで身体を整える。アマゾンで変わった食事と暮らし

病気が分かった頃は、「何を食べればいいのか」「どんな治療法があるのか」と、論文を読み、栄養について調べ続けました。けれど、この2年弱で一番大きく変わったのは、知識ではなく“私の暮らし”そのものでした。
朝日を浴び、森を歩き、植物を育てる。季節の果実を味わい、発酵食品を作る。草木染めに使う葉を探しながら美鳥と森を歩く。そして、肉が大好きだった食生活も、今では野菜や穀物が中心になりました。
腎機能が低下しているため、食材によっては水にさらしたり、下ゆでしたりと手間がかかります。そんな下ごしらえを丁寧にしてくれるのが美鳥です。知り合った頃の彼女は料理があまり得意ではなく、10キロのガスボンベが何年ももつほど台所を使わない人でした。
私はその場の思いつきで料理をする大雑把なタイプ。一方、美鳥は一度覚えた手順を丁寧に続けるタイプです。今では私が面倒に感じる下ごしらえも、私よりずっと丁寧にしてくれます。
一人では続かないことも、二人なら続けられる。完璧な生活を目指すより、お互いの得意と苦手を補いながら、ストレスにならない暮らしを続けること。そのほうが大切なのではないかと思うようになりました。
健康とは、「身体に良いものを次々と足していく」ことではなく、「毎日の暮らし全体のバランスを整えていく」ことなのかもしれません。
アマゾンの森は「答え」ではなく、「問い」をくれた

アマゾンの森が、私に答えを教えてくれたわけではありません。それでも、この森で暮らしていると、自分自身に問いかける時間が増えました。本当に必要なものは何だろう。こんなに急ぐ必要があるのだろうか。人生は結果ばかりを追い求める必要があるのだろうか。
病気は決して望んだものではありません。それでも、病気をきっかけに暮らしを変えたからこそ、気づけたこともありました。病気は今も私の人生の一部です。でも、それが人生の中心ではなくなりました。森を歩き、美鳥と新しいことに挑戦し、小さな発見を積み重ねる毎日のなかで、病気のことを忘れている時間が少しずつ増えてきました。
「ゆっくり生きる」というのは、何もしないことではありません。周りのペースに振り回されず、自分の時間を大切にすること。自然や季節の小さな変化に気づき、そばにいる人が少し笑顔になるようなことをする。そして、自分自身の身体の声にも耳を傾けながら、一日一日を丁寧に積み重ねていくこと。もし、それが「ゆっくり生きる」ということなら、私は今も、その途中にいるのだと思います。
ライター
橘谷エルナン
ペルー・アマゾン在住の日系人。森と共に暮らしながら、植物染めや森林農法、地域の食文化を探求。日本とペルーをつなぐ通訳・翻訳者として活動し、自然と人の関わりをテーマに執筆している。