「1964東京オリンピック」の招致を成功に導いた人たち
1964東京オリンピックの招致を成功させた中心人物は、NHKの大河ドラマ「いだてん」にも登場した田畑政治(たばたまさじ)です。
田畑氏は、1924年生まれ。朝日新聞社に入社し、記者として活躍した人物です。水泳の指導者としても知られており、1932年のロサンゼルスオリンピックでは、日本代表の監督を務めました。
後に日本水泳連盟会長に就任し、1964年東京オリンピックの招致活動に貢献することになります。
当時の内閣総理大臣岸信介は、約1,200億円(現在の貨幣価値に換算)もかかるとされるオリンピックの招致を懸念していました。
しかし田畑氏は、岸総理に対して「観光収入が見込める」と直談判をして、説得したといわれています。
田畑氏以外にも、1959年5月26日に、西ドイツのミュンヘンで開催された第55次IOC総会において、立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)、中南米の票集めに奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、日本レスリングの父といわれた八田一朗たちの功績も大きかったといわれています。
「1964東京オリンピック」で活躍した選手たち
今も伝説として語り継がれる「1964東京オリンピック」の出場選手を紹介します。
裸足の王者アベベ・ビキラ
アベベは、エチオピアのマラソン選手です。
オリンピックのマラソンで世界初の2大会連続優勝(ローマと東京)を果たしました。
東京オリンピックの6週間前に盲腸の手術を受けており、日本のコーチ陣は「まったくノーマークだった」と後に語っています。
東京オリンピックでのタイムは、2時間12分11秒2。世界最高記録で金メダルを獲得しました。
東洋の魔女
1964東京オリンピックを語る上で外すことが出来ないのが「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーボールチームの優勝です。1961年に欧州遠征をした際に、22連勝したことから「東洋の魔女」と呼ばれるようになりました。
当時の日本女子バレーボールチームのメンバーは以下の12人です。
磯辺サダ、河西昌枝、近藤雅子、佐々木節子、篠崎洋子、渋木綾乃、谷田絹子、半田百合子、藤本佑子、松村勝美、松村好子、宮本恵美子
「1964東京オリンピック」で日本人の金メダル第一号「三宅義信」
重量挙げ日本代表の三宅義信は、1964東京オリンピックで日本人金メダル第1号の栄誉に輝きました。
三宅氏は、法政大学卒業後に陸上自衛隊に入隊しました。重量挙げでは数々の世界大会で優勝し、多くの世界記録を保持しています。
オリンピックには、1960年ローマ大会から連続4大会(ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン)に出場。ローマでは銀メダル、東京とメキシコ大会では金メダルを獲得しました。
東京2020オリンピックの招致が決まった2014年5月、突如として現役復帰を宣言し、現在はマスターズ大会で活躍しています。
2012年ロンドンオリンピック重量挙げの銀メダリスト「三宅宏実」は姪にあたります。
「体操ニッポン」の土台をつくった「遠藤幸雄」
遠藤幸雄は、中学2年生から体操をはじめ、県立秋田工業高校、東京教育大学(現・筑波大学)では中心選手として活躍しました。
1960年のローマ五輪では体操競技の代表選手に選ばれ、日本初の団体総合優勝に貢献しました。
そして、1964東京オリンピックでは、日本人初となる個人総合優勝など金メダルを3つ獲得。
遠藤氏の素晴らしい活躍は、日本中に感動と勇気を与え、1998年には国際体操殿堂入りを果たしました。
この記事を書いた人
Greenfield編集部
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